日曜朝の礼拝「黄金律」

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黄金律

日付
説教
吉田謙 牧師
12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。マタイによる福音書 7章12節

エス様が全く独創的に語られた新しい教えではありません。イエス様よりも、もっと以前のギリシャの哲学者やユダヤ教の教師たちの言葉の中にも、これとよく似た言葉があるのです。そういう意味では、この「黄金律」は、人間が健やかに生きるための万国共通の常識である、とも言えるでしょう。しかし、この常識的な教訓をイエス様が語られる時に、それはもはや常識ではなくなります。

 イエス様のこの世での歩みは、まさに「黄金律」そのものでした。人々は、イエス様に、この世的な王様を求めましたが、イエス様の歩みは決してそういう歩みではなくて、「しもべ」として仕える歩みでした。

イエス様は、人々から嫌われていた徴税人や罪人と呼ばれていた人たちを、ご自分の食卓に招かれながら、「あなた方も神の国の一員であり、神様から愛されている」と宣言して下さったのです。また人々から、「神様に見捨てられ、悪魔の餌食になっている!」と忌み嫌われていた人たちに対しては、癒しの奇跡をもって神様の恵みを差し出して下さいました。このようにイエス様は、ユダヤ人たちから非難され、嫌われるような生き方を、決して恐れることなく積極的に貫き通して下さったのです。そして、心から人々を愛し、自ら受難の道を歩まれながら、最後にはその十字架の死によって究極の愛を私たちに差し出して下さったのでした。このイエス・キリストの歩みこそ、「黄金律」そのものであった、と言えるのではないでしょうか。

 私たちは、自分の人生において、実に様々なことを経験します。愛する者を失ったり、自分自身が思いがけない病気に襲われたり、信じきっていた者との愛が冷えきってしまったりと、様々な挫折を経験するのです。そんな時に、私たちは、よくこのように考えます。「これは人生の悲劇だ。自分はその悲劇の主人公になってしまった!」と。しかし、私たちクリスチャンは、そんな時にこそ、「祈るように!」と教えられています。今日の箇所の直前のところでイエス様は、「求め続けなさい」、「探し続けなさい」、「門を叩き続けなさい」と教えて下さいました。たとえ苦難の中にあっても、あなた方がそうやって諦めずに祈り続けるならば、神様ご自身があなた方と共に歩んでくださり、きっと時宜にかなった助けを与えて下さるであろう、と教えて下さったのです。ただし、イエス様は、そこで、なおこうも言われました。「その悲劇の中で、自分がしてほしいと思うこと、慰められることがよく分かったならば、それをしっかりと心にとめておきなさい。そして、今度はあなたがそのことを人にしてあげるように!」と。そういう意味では、今日の御言葉が、「求めなさい」という教えの締めくくりになっていることにも、ちゃんと意味があるのです。悲しみを経験した人は、人の悲しみを知ることが出来ます。苦しみを経験した人は、人の苦しみを知ることが出来ます。悲しむ者と共に悲しみ、苦しむ者と共に苦しむ。これこそ、イエス・キリストが歩まれた十字架の道ではないかと思います。イエス様は、私たち人間の味わう全ての苦しみと悲しみを経験なさいました。だからこそ、今、天にあっても、私たちの苦しみや悲しみ、弱さを知っていて下さり、私たちと共に苦しみ、私たちと共に悲しんで下さいます。そして、弱い私たちを執り成し、時宜にかなった解決の道を備えて下さるのです。私たちも、このイエス・キリストに倣う者として、悲しみや苦しみを糧としながら、悲しむ者と共に悲しみ、苦しむ者と共に苦しむという、キリストの愛に基づいた信仰生活を歩んでいきたいものです。

 とは言うものの、私たちは、しばしば、自分が今置かれている現状を乗り越えることだけで精一杯で、他人のことを思いやる暇はない、と考えてしまいがちではないかと思います。もっと余裕が出来れば、あるいは、もっと自分にゆとりが出来たなら、他人のことも考えようと思うのです。けれども、イエス様の教えは、そのような思いを全く寄せつけません。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」、「ゆとりが出来たならしなさい」というのではなくて、困窮の中にあるあなた方だからこそ、今、出来ることがあるのではないか、と主は言われるのです。常識にすぎなかった「黄金律」が、ここでは明らかに常識を越えています。一体、そんなことが果たして私たちに出来るでしょうか。

 実際に私たちは、礼拝でイエス様のことを聞く度に、「自分もそのように生きてみたい」と願われるのではないかと思います。他でもない、この私を救うために、あんなにも壮絶な苦しみをイエス・キリストは担って下さった。ボロボロになって、血まみれになって、それでも最後の最後まで私たちへの愛を貫き通して下さった。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と私たちのために執り成し祈りながら、十字架の上で息を引き取られたのです。あんなにまで必死になって、血まみれになって、この私を愛し抜き、救おうとして下さった。この私の弱さを最後の最後まで担い切って下さった。この凄まじいまでの神様の愛を知る時に、私たちの心は感動で打ち震えると思います。この神様の愛に少しでもお応えしたいと思う。私もイエス様のように神様のことを心を尽くして愛したい、イエス様のように自分と同じくらいに隣人を愛したい、自分の満足ばかりを考えるのではなくて、イエス様のように人の満足のために仕えるようになりたいと思う。これはクリスチャンの極々自然な態度ではないかと思います。

 山上の説教は、イエス様が私たちを「このように造り変える!」と宣言して下さったイエス様の教育方針なのだ、とよく言われます。勿論、これは一朝一夕に出来ることではありません。けれども、主が私たちを変えて下さる力をもちながら、「このように生きてみなさい」と言って下さるのですから、この主の約束を信じ、たとえ不完全であっても、今、自分に出来る精一杯の仕方で、この主の御言葉を実践していきたいと思います。

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