日曜朝の礼拝「求めなさい」

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求めなさい

日付
説教
吉田謙 牧師
7 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・・ 11 あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない。
マタイによる福音書 7章7節-11節

 この「求める」という言葉は、ただ漠然と何かを「追い求める」のではなくて、「願い求める」という意味の言葉が用いられています。では、いったい誰に願い求めるのでしょうか。それは当然、天の父なる神様です。つまり、ここでイエス様は、神様に願い求める「祈り」について語ろうとしておられます。

 しかもこの「求める」という言葉は、文法的には、「求め続ける」という形になっています。つまりここでイエス様は、祈り続けることの大切さを教えようとしておられるのです。何故でしょうか。それは、私たちが、簡単に祈ることを諦めてしまうからです。

 私たちは、神様がなさる御業の全てを理解できるわけではありません。ですから、私たちがいくら願い求めても、神様の御業が一向に進んでいないかのように思えることがあります。そんな時に、私たちは、祈ることを簡単に諦めてしまうのです。しかし、そういう私たちに向かってイエス様は、続けてこう言われました。「探しなさい。そうすれば、見つかる。」

 これは、何か無くしたモノを探しなさいと言われているわけではありません。この「探す」という言葉は、「尋ね求める」とも訳せる言葉です。「尋ね求める」のです。では誰を尋ね求めるのでしょうか。それは神様です。神様を尋ね求めるのです。

 かつて預言者エレミヤはこのように語りました。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」エレミヤ書29章11節以下の御言葉です。

 預言者エレミヤは、バビロン捕囚の中で意気消沈し、神様の計画は災いの計画なのだから、神様に祈っても無駄ではないかと諦めかけている人々に向かって、神様からの慰めの言葉を語り伝えました。「神様の計画は決して災いの計画ではない、平和の計画であり、将来と希望を与える計画なのだ。だからあなた方は諦めないで神様を尋ね求め、神様に祈り求めるように。そうすれば神様は必ずあなた方の祈りを聞きあげ、あなた方は神様を見出し、神様に出会うことが出来るだろう!」このように預言者エレミヤは意気消沈している民を慰めたのです。

 私たちが祈ることをやめてしまう時というのは、大抵の場合、神様がどのようなお方であるかが見えなくなってしまう時ではないでしょうか。そうであるならば、そんな時にこそ私たちは、神様を尋ね求めるべきです。「わたしを尋ね求めるなら、あなたはわたしを見いだす!」と神様ご自身が約束してくださっているのですから。

 さらにイエス様はこう言われました。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

 願い求めることや尋ね求めることだけではなくて、「門をたたきなさい」と主は言われました。「門をたたく」というのは具体的な行動を言い表しています。

 神様に祈り求め、神様を尋ね求めるだけで、私たちは何もせずにただぼんやりとしていていいはずがありません。たとえ私たちの力で扉をこじ開けることが出来なかったとしても、私たちは門をたたくことは出来ます。そうやって諦めることなく神様に願い求め、神様を尋ね求めつつ、私たち自身も、たとえ小さなことであっても、今自分に出来る精一杯のことをしていくならば、やがて神様がそのびくともしなかった扉を開けてくださる、と言うのです。

 どんなに重く大きな扉で、動かしがたく見えたとしても、神様が扉を開いてくださると信じているならば、私たちの無力さは全く問題ではありません。私たちは、安心して門をたたき続けることができるのではないかと思います。

 11節のところで、「ましてや、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」と言われていますが、ここで「良いもの」と言われている言葉は、ルカによる福音書の並行箇所においては、「聖霊」と言い換えられています。神様が与えて下さる一番良いものとは「聖霊」のことである。即ち、神様ご自身のことなのだ、とルカは伝えているのです。

ドイツの牧師ブルームハルトの「夕べの祈り」という書物があります。その中に、こういう言葉がありました。「われらに必要な安息を与えて下さい。あなたが生きて、本当にわれらの傍らにおられるのだ、ということを経験させて下さい。」

 聖霊を求める、神様を求めるというのは、こういうことなのです。「あなたが私の傍らに寄り添っていて下さる。そのことを知りたい。そのことさえ分かったならば、今しばらく、生活苦を味わわねばならなくとも、今ここで、この病と闘わねばならなくとも、その闘いに耐え抜くことができる。『父よ』と呼ぶことのできる神様が、今、生きて、すぐそばにいて下さることさえ確信できれば、もうそれでよい!」こういう祈りです。「神様はおられないのではないか」という不安が、私たちの心に忍び込むならば、どんなにお金があり、平安に生きているようであっても、それは根底から覆(くつがえ)ってしまうのです。「神様、あなたは本当に生きておられ、ここにいて下さることを、どうか私たちに悟らせて下さい!」私たちが祈る祈りは、結局、この祈りに尽きるのではないかと思います。

 何を祈ってもよいのです。神様は私たちの祈りを、今か今かと待っておられます。時々、私たちは見当違いの祈りをするのですが、たとえそうであったとしても、この天の父なる神様に向かって祈っているならば、それも基本的には救いを求めている祈りであり、聖霊を求めている祈りです。きっと神様はその祈りをきよめて最善の仕方で応えて下さるに違いありません。

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