キリストのいたわり
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- 吉田謙 牧師
6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。
マタイによる福音書 7章6節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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ここで言う「神聖なもの」とか「真珠」というのは、イエス・キリストの救い、即ち「福音」のことを言い表しています。つまり福音の価値が分からない犬や豚のような輩には、もう福音を提供する必要はない、と言われているのです。これは、いったいどういうことでしょうか。
今日の御言葉で、特に注意しなければならないのは、神聖なものを犬に与えてはならない、その「理由」です。イエス様は、ここで神聖なものを犬に与えてはならない理由を、一つだけ語っておられます。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
イエス様がここで心配しておられるのは、福音を宣教する者たちのことでした。「あなた方に彼らがかみついてくるといけないから、神聖なものを犬に与えてはならない」と主は言われるのです。イエス様は、伝道する私たちの様々な痛みをご存じです。私たちが伝道する時に味わう様々な痛みに同情して下さり、「もうそこまででよい!」と言って下さるのです。
私たちが家族や友人に対して熱心に伝道する時に、やがて家族や友人の関係にヒビが入り、愛する者が教会に来てくれないことに心痛めながらも、もう誘うことが出来なくなってしまった、ということがしばしば起こります。イエス様は、そうやって伝道に行き詰まっている人々に対して、「もうそれでよい」と、慰めの言葉を語って下さったのでした。
少し前のところに、伝道についてこういうことが語られていました5章14節以下の御言葉です。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
私たちが福音を信じ、神様を第一にして生きているならば、もうそれだけで私たちは世の光なのだ、と言うのです。
首から下が動かない体で、筆を口にくわえながら美しい絵を描いておられたあの星野富弘さんが、こういう言葉を絵に添えておられました。「命が一番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。命よりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」
素晴らしい言葉ですね。「命よりも大切なものがある」ことが分かった時に、はじめて生きることは嬉しくなった、と言うのです。命が一番大切な時には、生きることが苦しかったのです。しかし、命よりも大切なものがあることに気づかされた時に、確かに生きることは嬉しくなりました。クリスチャンは、それぞれの生き様を通して、このことを表していくのではないかと思います。健康に不安を抱えながらも、一生懸命礼拝を守ろうとする人がいます。色んな問題を抱えながらも、へこたれずに礼拝に出席する人がいます。そういう私たちの姿を通して、「命よりも大切なものがある」ことを表していくのだと思います。そうやって私たちが福音に徹すれば徹するほど、私たちは自然と「世の光」となっていくのではないでしょうか。イエス様はここで「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」と言われました。「世の光は隠れることが出来ない」、「必ず現れてくる」と言うのです。福音に反抗し続ける人々に向かって、ただ闇雲に「教会に来て下さい!」、「イエス様を信じましょう!」と語り続けることだけが伝道ではありません。沈黙しながら、ただひたすら待ち続ける伝道もあるのです。
今日の御言葉のすぐ後のところで、イエス様は『求めなさい。そうすれば与えられる』と教えられました。「伝道に行き詰まった時には、無理して突き進まなくてよい!」とアドバイスなさったイエス様は、しかしその後に「求めなさい」と励まされたのです。私たちは、祈りを切り上げ、「もうこの人には伝道しない」と決めていいはずがありません。密室で祈ることは、やはりいつまでも続けるべきでありましょう。この「求めなさい」という言葉は、原文では「求め続けなさい」という言葉が用いられています。愛する者の救いのためには求め続けるのです。自分自身、世の光として、命よりも大切なものがあることを表しながら、家族や友人のためには、やはり求め続け、待ち続けることが私たちには求められています。そして、そういう私たちに対してイエス様は、「そうすれば与えられるであろう」と約束して下さったのでした。
イエス様は、十字架でご自分が汚されることを赦されました。しかし、そのようにして罪人の犯行を最後まで堪え忍ぶことが出来たのは、ただイエス様お一人だけです。人間には、到底、その真似は出来ません。人間はあるところで疲れ果ててしまうのです。イエス様は、「自分の手にあまることはしなくてよい!」と言われます。それをすることは、むしろ自分の力を過信することであり、傲慢なのだ、と主は言われるのです。イエス様は、私たちの限界をちゃんと見抜いておられます。奉仕の限界、伝道の限界、愛の限界、私たちの力には限界があるのです。しかし、イエス様は「それでよい!」と言われます。全ての敵意を受けとめることが出来るのは、ただイエス様お一人だけです。イエス様は、「犬のごとく、豚のごとく罪を露わにしている者たちのためにこそ、私は宝であり続けよう!あなた方の力で無理する必要はない。それは私の仕事だ。だからあなた方は行けるところまで精一杯行って、立ち止まらざるを得なくなったなら、立ち止まったらよい!」と言って下さるのです。私たちは、伝道の課題を心に刻みながらも、このイエス様のいたわりの心に目を注ぎたいと思います。もしかすると、今、福音を宣べ伝えるべき人が、私たちの身の周りにもいるのかもしれません。そういう人に対しては、まず私たちは勇気をもって声をかけるべきでしょう。しかし、激しい反発を露わにする人々に対しては、このイエス様に委ねつつ、今はじっと耐え忍び、沈黙しなければならないこともある、そのこともしっかりと覚えておきたいと思います。