日曜朝の礼拝「人を裁くな」

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人を裁くな

日付
説教
吉田謙 牧師
1 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
マタイによる福音書 7章1節-5節

 「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中にある丸太には気付いていない」、イエス様はそういう人のことを批判しておられます。「兄弟の目にあるおが屑が見える」とは、人のほんの小さな罪や欠点にも気づき、それを教えてあげるという親切を装いつつ、実は人の欠点をあげつらい、批判しているということのたとえです。しかし、実はその人自身の目には「丸太」がある、と主は言われます。丸太が目の中に入るはずがありません。これは、その人の目が塞がれていて何も見えていないことの比喩です。「私には、あなたの目の中のおが屑が見える、ちりが見える」と言いながら、実はその人の目は丸太で塞がれていて、何も見えていないのです。これは決して他人事ではなくて、私たち自身がそのようなことになってしまってはいないか、常に振り返る必要があると思います。なぜならば、「あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と言っている人は、自分はよく見えていると思っているからです。しかし、本当はその人の目は大きな丸太で塞がれているのです。私たちも、自分は目が見えていて、人のことを批判することができる、あの人を罪人として断罪することができる、と思っている時にこそ、よくよく気をつけなければならないのではないかと思います。

 では「人を裁くな」というこの教えは、他人の罪のことは、もうとやかく言わない、何も口出ししない、ということでしょうか。決してそうではありません。イエス様は、他人に忠告することを全面的に禁じられたわけではないのです。イエス様は、今日の箇所で、人の目のおが屑を取り除く道筋を、本当は教えておられます。5節。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

 まず自分の目に丸太が突き刺さっていることを、素直に認めることが重要です。そして、それを取り除くための戦いを始めるのです。そうやって自分の罪と戦っていく時に初めて、兄弟の目にあるおが屑も取り除くことが出来る。これは人に忠告する人間にとって、とても大切な教えではないかと思います。人に対して適切な忠告が出来るかどうかは、自分自身がどれだけ真剣に自分の罪と戦っているかどうかにかかっている、と言うのです。

 私たちは、自分の罪と真剣に戦ってみて初めて、罪のひつこさに気づかされるのだと思います。よく人の失敗を指摘する人は、「何度言ったら分かるのか!」と怒ります。しかし、これは罪の現実を知らない人の言葉ですね。自分の罪と真剣に戦っている人は、そんなことは言いません。何度言っても分からないのです。そもそも罪というのは、そういうものでしょう。怠け者の人間は、何度でも怠けます。嘘つきの人間は何度でも嘘をつきます。人に向かって、すぐにカッとなって怒る人間は、何度反省してもまた同じように怒り続けるのです。罪とは、本来、そういうものでしょう。一言、注意されたからと言って、すぐに治るような、そんな生易しいものではないのです。自分自身の罪と真剣に戦っている人は、そのことがよく分かっていますから、「何度言ったら分かるのか!」などとは決して言いません。何度でも忍耐強く、柔和に忠告するのです。忍耐強く柔和な心で忠告することが出来るのは、自分の罪と真剣に戦い、罪のひつこさを嫌というほど思い知らされた人間だけが出来ることなのです。

私たちが自分の罪と真剣に戦う時に分かってくる大切なことがもう一つあります。それはキリストの十字架の恵みであり、神様の赦しの恵みです。私たちが、諦めずに、罪と戦い続けることが出来るのは、何故でしょうか。それはやはり、このイエス様の十字架の恵みがあるからです。イエス様は、そういう懲りない私たちに対して、「何度言ったら分かるのか?!」、「これ以上の罪は赦さない」、「もう限界だ!」とは言われません。イエス様は、そういう私たちの罪の全部を背負って、十字架の上で死んで下さいました。そして、私たちが今までの罪に捕らわれないで、新しく生きることが出来るように、私たちを常に励まして下さるのです。「あなたがどんなに大きな罪を犯しても、私は決してあなたを見捨てない。いつでも全てを洗い流すから、あなたはもう一度、新しく生きてみなさい。諦めずに罪と戦い続けるように!」と、イエス様は繰り返し、私たちを励まして下さるのです。私たちが、諦めずにこの罪と戦い続けることが出来るとするならば、この神様の恵みを抜きにしては考えられません。そして、この神様の赦しの恵みを味わっている人は、兄弟姉妹に忠告する時に、裁くという仕方では忠告しないと思います。

 そういうわけで、一番良い忠告というのは、自分の目から丸太を取り除こうと戦いながら、罪のひつこさを味わい、またイエス様の十字架の恵みを味わいつつ行う忠告です。その時に、忠告する人は、忠告される人の罪のひつこさについて、深い同情を示すことが出来ると思います。そして、一番理想的な忠告は、最後には忠告された人と共にキリストの十字架の前に出て、一緒に祈ることが出来るような忠告でありましょう。

初代教会の最大の牧会者であるパウロは、このように言いました。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」(第一テモテ1:15)。「私は正しい」と主張した人間ではなくて、「私は罪人の中で最たる者です!」そして「キリスト・イエスはこの私を救うためにこの世にやって来て下さいました!」と、自分を罪人の頭と認め、そういう自分にイエス様の十字架の恵みを当てはめることが出来た人こそが、本当の意味で人を導くことが出来るのだと思います。私たちも自分の目の中にある丸太と戦いながら、兄弟姉妹の罪の戦いのためにも祈り、助け、必要な時には、忍耐強く、また柔和に忠告することが出来る者へと、自分自身を少しずつ整えていきたいと思います。

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