日曜朝の礼拝「思い悩むな」

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思い悩むな

日付
説教
吉田謙 牧師
25 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。・・・ 33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
マタイによる福音書 6章25節-34節

 心配すること、思い悩むことは、必ずしも不信仰なことではありません。人間はもともと思い悩むように造られています。この「思い悩む」という言葉は、「心を遣う」とか「心をかける」と翻訳されることもあります。そしてその場合、この言葉は、推奨される行為として語られているのです。またパウロ自身、自分のこととして、こうも語っています。「このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」(第一コリント11:28)。この「心配事」という言葉は、今日の箇所の「思い悩み」という言葉とは原文では違う言葉ですが、同じ意味の言葉です。パウロは決して呑気に生きていたわけではありません。心が全く波立たず、いつも平静でいたわけではないのです。彼には深い思い悩みが沢山ありました。日々、教会についての心配事があったのです。こういう心配事は、決して不信仰なのではなくて、むしろ忠実な教会指導者の特徴でありましょう。

イエス様がここで禁じておられるのは、「何を食べようか、何を着ようか」ということについての思い悩みです。今日の御言葉の最初には、こう言われていました。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」、この「だから」という言葉は、その前の24節を受けての言葉です。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」このように教えられた後で、「だから言っておく」と主は言われたのです。そして、そこで語られたのが、「この地上の富のために思い煩ってはならない」という教えでした。私たちが、「食べ物や着物についての思い悩みから解放されよ」と言われるのは、気楽で呑気に生きるためではありません。それは私たちの心配りを、もっと大切な事柄に向けるためでした。「あなたには、もっと心を配るべきことがあるのではないか。もっと心配すべきことがあるのではないか?!」と主は言われるのです。

 その上でイエス様は、今日の御言葉の結論として、このように教えられました。33節。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

 イエス様は、私たちを、食べ物や着物についての思い悩みから解放された後で、もっと重要な、私たちが心を尽くして取り組むべき大切な問題を示して下さいました。それは「神の国と神の義を求める」ということです。この「神の国」というのは、これまでにも何度もお話ししましたように、「神様のご支配」という意味です。また「神の義」とは、その神様のご支配に伴う「神様の正義」を意味します。これをもっと分かりやすく言うならば、「神様の御心」ということです。ですから「神の国と神の義を求める」とは、「神様のご支配が実現し、神様の御心が行われるように!」と願うことなのです。もうお気づきになったかもしれませんが、これは、以前学んだ「主の祈り」の第二祈祷と第三祈祷が、もう一度繰り返されているのです。

 この山上の説教を学んで、私たちがいつも思わされることは、「自分には愛が欠けている」ということです。私たちは、なかなか敵を愛することが出来ません。自分にちょっと辛くあたる人に対しても、私たちの愛はすぐに冷めてしまいます。罪が私たちの心を支配しているのです。「そういう私の心に神様のご支配が及び、こんな私でも神様の御心を行うことが出来るように」と願う。これが神の国と神の義を求める、ということです。あるいは、この山上の説教を学んで私たちが思わされることは、このイエス様の求めからするならば、私たちの家庭や社会が、このイエス様が求められる愛から、いかにかけ離れているか、ということです。罪が私たちの家庭や社会に入り込んでいるのです。ただそれだけではありません。教会の中にも罪は入り込んでいます。神様のご支配がもっともっと徹底され、私たちがもっと神様を信じ、互いに愛し合うことが出来たなら、この世界はどんなに素晴らしい世界になることでしょう。そういうわけで私たちは、この社会と私たちの家庭や教会に、神の国と神の義が実現するようにと切に願い、そのためにそれぞれに与えられた賜物と環境の中で精一杯労苦するのです。これが神の国と神の義を求めるということの中身です。私たちは、このことのために、もっと心を配るべきではないでしょうか。

 私たちに与えられた魂は、空の鳥や野の花にはない素晴らしい魂です。私たちは、この魂を用いて、野の花も空の鳥も出来ないような心を遣う仕事をするのです。即ち、心を配り、心配し、祈るのであります。「日々、教会についての心配事がある」と語ったパウロは、決して不信仰ではありませんでした。心を配り、心配することは、人間にしか出来ない素晴らしい働きなのです。愛のために、そして神様のために、この私たちの素晴らしい人間性を忠実に用いていきたいと思います。今日の箇所でイエス様は、私たちに与えられている素晴らしい人間の力を、一番大切なことのために、真っ直ぐに用いるようにと教えられました。神と富とに兼ね仕えることが出来ないのであれば、私たちは富に執着し、思い悩むのではなくて、まず神の国と神の義を求めるべきでありましょう。

 命が危ぶまれる病気と戦いながらも、自分のことよりも愛する家族の救いのために一所懸命に祈り続けた人のことを、私は知っています。自分の健康以上に、愛する者の魂のことや神の国のことが心配で心配でならなかったのです。この心配は、し続けて良い心配です。それは健康のための心配よりも、もっと重苦しくなることがあるのかもしれません。しかし、それは素晴らしい心配です。神様の恵みに取り囲まれている心配です。パウロがした心配です。イエス様がなさった心配であります。私たちは、心配することを厭うべきではありません。心配することを忘れて、ボーッと生きている人間は、やはり生きる力をすべて使い切っていないのだと思います。神の国と神の義を求めて、私たちが負担すべき魂の労苦を、それぞれに担う者でありたいと思います。

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