復活の主と共に歩む
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- 説教
- 吉田謙 牧師
31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
ルカによる福音書 24章13節-35節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今日の物語で特に印象的なのは、イエス様が復活なさったその日に、復活のイエス様と一緒に歩いていた弟子たちが「暗い顔をしていた」ということです。イエス様は、そういう二人の弟子たちに近づき、「その話は何のことですか?」と尋ねました。それに対してクレオパという人が、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか?」と呆れながら答えると、イエス様は、「それはどんなことですか?」と興味津々に尋ねたのでした。そういうイエス様とのやりとりの中で、結局、彼らは、胸の中につかえていた、モヤモヤとしたわだかまりを、この時全部吐き出すことが出来たのです。彼らは、イエス・キリストこそイスラエルを解放して下さる救い主であると堅く信じ、そこに望みをかけていました。ところが祭司長たちの陰謀によって、イエス様は十字架に張り付けにされ、あえなく処刑されてしまったのです。これで全てが水のアワになってしまった、と彼らは思っていました。しかも、イエス様の亡骸さえ、どこかへ消え失せてしまった、と言うのです。彼らは何が何だか分からなくて、途方に暮れながら故郷に帰ろうとしていたのです。ところが、その絶望と嘆きと混乱の胸の内を、この時、彼らは全部吐き出すことが出来ました。それだけでも、彼らの心は随分と軽くなったのではないかと思います。私たちも、彼らと同じように祈りにおいて、自分の胸の内を、遠慮することなく、全部イエス様に打ち明けることが出来るのだと思います。またイエス様は、この後、この二人に、聖書の言葉を、まるで通訳するかのように分かりやすく説き明かして下さいました。今、私たちは、礼拝の説教において、このことを主に味わうことが出来ます。
私たちは、復活のイエス様をこの目で見ることは出来ません。けれどもイエス様は、肉の目で見るよりももっと確かな仕方で、私たちと共にいて下さいます。それは、祈りと御言葉の説き明かしが執り行われる礼拝においてなのです。私たちは、この礼拝生活の中でこそ、復活のイエス様と出会い、イエス様と共に歩むことが出来るのです。
私は、失望して群れから離れようとしている、この弟子たちに、イエス様の方から近づき、ずっと一緒に歩いて下さった、というこの物語が大好きです。この物語を読む時に本当に慰められます。彼らは、イエス様の復活を信じ、「復活のイエス様に会いに行こう!」と意気揚々と都エルサレムに向かっていた弟子たちではありません。イエス様の復活が信じられなくて、群れから去ろうとしていた弟子たちです。イエス様は、そういう者たちのところに、ご自分の方から近づき、ずっと一緒に歩いて下さった、と聖書は伝えているのです。ところが当の本人たちは、イエス様の復活が信じられなくて群れから遠ざかったような弟子たちですから、自分たちの傍らをずっとイエス様が歩いて下さったことに全く気づきませんでした。けれども、彼らが気づいていようが、気づいていまいが、そんなこととは全く関係なく、イエス様はずっと彼らの傍らにいて、一緒に歩いて下さったのです。
たとえ私たちの目が遮られ、イエス様が共にいて下さることが分からなくなってしまっても、私たちがこの礼拝の場に身を起き続けるならば、必ず聖霊が豊かに働きかけて下さいます。そして私たちの嘆きをちゃんと受けとめ、その時々に相応しい慰め、励ましの言葉を聞かせて下さるのです。時には、微睡んだ私たちに克を入れるために、厳しいお叱りの言葉を語られることもあるでしょう。そして、毎月、執り行われる聖餐の礼典においては、何度でも諦めずに、ご自身を現して下さるのです。
時には悲しみの虜になって、もう祈ることさえ出来ない、そんな辛い時を過ごすこともあるかもしれません。でも大丈夫です。私たちが気づかなくても、イエス様はちゃんと私たちの傍らに立ち、祈りにならない呻きさえも聞き取って下さいます。
最後に、以前、あるクリスチャン雑誌に掲載されていた詩の一部を紹介して終わりたいと思います。こういう詩です。
「同じ悩みを知るわたしが、その人と共に悲しまないでおれようか。同じ痛みを知るわたしが、いたわり慰めないでおれようか。こぼれるその人の涙を知るわたしが、悲しみに胸痛めずにいられようか。声忍ばせて泣くわが子を見守る父は、胸ふさがずにいられようか。おさなごの呻きを、怯える子の声を、母は、ただ座して聞いておれようか。否、否、決して出来はしない。決して、決して、出来はしない。主は万物に喜びを与えるお方、いと小さき幼子となり、悩みの人となり、主は悲しみを味わい尽くされた。思ってはならない。深い溜息をつく時、主は傍らにおられないと。思ってはならない。涙を噛みしめる時、主はあなたの近くにおられないと。ああ、主は悲しみを滅ぼすため、私たちに喜びを下さる。悲しみが逃げ去るまで、主は我らのかたわらに座し、共に呻いて下さる。」こういう詩です。
私たちは、しばしば立ちすくむことがあります。うずくまることもあります。「こんなはずではなかった」と悔やむこともあるでしょう。けれども、私たちの主イエス・キリストは、そんな時にも私たちの傍らにいて下さいます。私たちがうずくまる時、うづくまる私たちよりも、もっともっと低いところまで沈み込んで、私たちと共に苦しみ、共に悲しんで下さるのです。そして、それら全てに打ち勝たれたお方として、私たちを担い、立ち上がらせて下さるのであります。この恵みを知ってさえいれば、もう大丈夫です。あの二人の弟子たちが、喜んで、困難が待ち受けているエルサレムへと帰っていったように、私たちもまた、大いなる希望をもって、この礼拝の場から、困難が待ち受けているそれぞれの場所へと、主と共に帰っていきましょう。