日曜朝の礼拝「天に宝を積みなさい」

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天に宝を積みなさい

日付
説教
吉田謙 牧師
19 あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
マタイによる福音書 6章19節-24節

 今日の御言葉でイエス様は、私たちが何を目指して生きるべきかを教えられました。「あなたがたは地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい」と言うのです。この「富」と翻訳されている言葉は、本来「大事に倉にしまっておくべきもの」という意味の言葉です。以前の翻訳では「宝」と翻訳されていました。最近、発行された聖書協会共同訳聖書でも、以前の「宝」という翻訳に戻っています。やはり、この言葉は、「宝」と翻訳した方が分かりやすいと思います。「あなた方は地上に宝を積んではならない!」とイエス様は教えられたのです。

 また21節のところに、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と言われています。あなたの思いが集中するところに、あなたの宝がある、と言うのです。天に宝を積む人は、天に心が集中します。「天」というのは、神様がおられるところですから、「神の国」「天国」とも言い換えることが出来るでしょう。天に宝を積む人は、天国に心が集中し、神様がその人の人生の中心になっていくはずです。逆に、地上に宝を積む人は、地上の事柄がその人の人生の中心になっていきます。このように、心が集中するものを、ここでは「宝」と言い表しているのです。

 では、私たちの心が集中しているものとは、いったい何でしょうか。「お金」や「仕事」、「家族」、あるいは「命」でしょうか。クリスチャンでない人ならば、多くの人が「命」と答えるのかもしれません。「命あっての物種」と昔から言われるぐらいですから。しかし、あの有名な愛の人マザー・テレサは、こう言いました。「信仰を失うより、いのちをなくすことをわたしは選びたい!」と。彼女は、キリストへの信仰を失うぐらいなら、命を失った方がよい、と言ったのでした。このマザー・テレサこそ、将に天に宝を積んだ人ではなかったかと私は思います。彼女は、こうも言っています。「私たちにはキリストが見えませんから、私たちの愛をキリストに言い表すことは出来ません。でも私たちの隣人なら見えます。だからキリストにしてさしあげたいと願っていることを隣人にしてあげましょう。」彼女は、こう言いながら、ハンセン氏病患者のための施設を作り、次から次へと道ばたで人知れず死んでいく人たちを、家に集めては介抱し、「あなたも神様に愛されていますよ」と励ましながら、その人たちの最後を看取っていったのでした。彼女の生き様を見れば、彼女の心が、いったい何に最も集中していたのかは一目瞭然です。それは「イエス・キリストへの信仰」です。言い換えるならば、マザー・テレサにとって、最も大切なものは、イエス・キリストご自身であった、ということでしょう。そして私たちにとっても、このお方こそが私たちの宝なのです。

この後、私たちは「キリストにはかえられません」という讃美歌を歌います。「世の宝も富も、どんなに美しいものも、有名な人になることも、キリストにはかえられません。キリストこそ私たちの宝です!」と歌うのです。将に、この讃美歌は、マザー・テレサの信仰告白そのものと言えるでしょう。私たちも、この讃美歌を歌いながら喜んで自らの信仰を告白したいと思います。

 イエス様は、「地上に宝を積み、そこに心をあずけてはならない!あなた方は、むしろ天に宝を積みなさい!」と教えられました。何故でしょうか。その一つの理由が19節に記されています。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍(しの)び込んで盗(ぬす)み出したりする。」

 この地上のものは全て、やがては古びて朽ちていくものだから、この地上のものに第一の拠り所を置いてはならない、これがイエス様の教えでした。

 かつて私たちは、あの阪神淡路大震災の時に、地上の宝がいかにもろいものであるかを思い知らされました。神戸に住んでいた人たちの中で、いったいどれぐらいの人が「神戸の町はやがて崩れ去る」と思っていたでしょうか。一部の学者をのぞいて、それはほとんど皆無であったと思います。関東のように、よく地震がある地域ならば、皆それなりの心備えがあったことでしょう。ところが神戸に住んでいた人たちは、まさか神戸の町が地震で壊滅状態になるとは誰も想像すらしていなかったのです。海と山に囲まれた、おしゃれな町、神戸。自分たちが造り上げたこの町は永遠不滅である、と皆心の奥底では思っていたのでした。あの阪神淡路大震災が起こる時までは。しかし私たちは、あの時、この地上のものは決して永遠ではない、いつかは崩れ去るものなのだ、ということを嫌というほど思い知らされました。家や建物だけではありません。健康であっても、仕事や家族、地位や名誉であっても、結局はみな同じです。それらはいつかは朽ち果ててしまうものでしょう。

 けれども、だからと言って、それらは全て悪いものなのかと言うと、決してそうではありません。それらも神様が私たちに与えて下さった大切な賜物の一つ一つです。ですから神様を中心にした生き方の中で、神様から与えられた賜物として、感謝をもってそれらを受けとめていくならば、むしろその人の人生は、その一つ一つの賜物によって、より豊かになり、またより潤いのある人生になっていくことでしょう。そして、たとえ、それらがやがて朽ち果てる時がやってきたとしても、その人の人生の中心にはちゃんと神様がおられますから、大丈夫です。一時期、落ち込むことがあったとしても、決して大崩れすることはありません。必ずや立ち上がることが出来るはずです。けれども、そういう朽ち果てるものに心が集中し、それらにしがみついて生きている人は悲惨です。やがてそれらを失った時に、彼らは、もう立ち上がることが出来ません。これは本当に不幸な生き方ではないかと思います。

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