日曜朝の礼拝「神の御前で悲しむ」

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神の御前で悲しむ

日付
説教
吉田謙 牧師
16 断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
マタイによる福音書 6章16節-18節

 私たちには「断食」という習慣がありませんから、「断食」と言われても、あまりピンとこないのかもしれません。この「断食」という宗教的行為は、もともと悲しみを神様に向かって表すという行為でした。自分の罪を悲しみ、御言葉に従うことが出来ない自分の弱さを悲しむ時に、彼らは神様に向かって、その悲しみを表し、断食したのでした。つまり、この断食の精神は、決して間違ったものではなくて、むしろクリスチャンとしての本来あるべき姿とも言えるでしょう。ところが、私たちの罪深さは本当に呆れるほどに根深く、また複雑ですから、「罪を悲しんでいる姿が信仰者のあるべき姿なのだ」と教えられると、また別の誘惑に誘われます。罪を悲しんでいる姿さえも人前に表したいと思ってしまうのです。イエス様は、そういう愚かな私たちに対して、今日の箇所でこう教えられました。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。」と。

 この「人前で沈んだ顔つきをしてはならない」というのは、ただ単に「罪を嘆き悲しむ様子を人に見せてはならない!」ということではありません。本当に心の底から嘆き悲しんでいるならば、それが表の生活に現れてくるのは当然のことでしょう。それを、まるで嘆き悲しんでいないかのように振る舞おうとするならば、それはむしろ別の意味での偽善になるのではないか、と思います。では、この御言葉はどのように受けとめればよいのでしょうか。この御言葉を理解する上で鍵になるのは17節の御言葉です。「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。」

 この御言葉も、これを読んだだけでは何のことを言っているのかよく分かりません。いかにも自分は「断食」しているのだということを表すために、ヨレヨレの姿で、青白い顔をして人前に出るのではなくて、頭に油をつけ、顔を洗い、身だしなみを整えて、まるで「断食」などしていないかのようにして人前に出なさい、と教えているのだろうと普通なら受け止めるのだと思います。けれども、ある聖書学者は、「これは喜びの行為であり、あたかも祭の時のように着飾ることの表現である」と語っていました。これは、とても大事なことを指摘していると私は思います。ファリサイ派の人たちが、「信仰生活は苦行を積むことであり、沈んだ顔をすることである」と考えていたのに対して、イエス様は弟子たちの信仰生活を「祭の時のような喜びの生活なのだ!」と言われたのです。現にイエス様は、この後、9章のところで、イエス様の弟子たちの生活を、花婿と共にいる婚礼の客に譬えながら、「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことが出来るだろうか。」と語っておられます。マタイによる福音書9章15節の御言葉です。このことを踏まえる時に、「人の前で沈んだ顔つきをしてはならない」というこの教えが、「人前で悲しんではならない」という単なる禁止命令ではないことが分かってきます。これはそういう禁止命令ではなくて、「もうあなた方は人前で悲しまなくてもよい」、「むしろ、あなた方は喜ぶことが出来る」、「今は祭の時、イエス様が救い主としてやって来られた喜びの時なのだ!」という慰めの言葉なのです。

 以前、ある方からこういう話を聞きました。その方は、ある出来事がキッカケとなり、自分の罪深さ、嫌らしさを徹底的に示されたそうです。本当に情けなくて、辛くて、苦しくて、悲しくて、神様の前で、「本当にごめんなさい。神様、どうかお赦し下さい」と涙を流しながら、ただただ祈ることしか出来なかったと言います。けれども、その方は、その祈りの中で本当に不思議な経験をされたそうです。ある瞬間、心の中でパチンと音がして、急に心が軽くなったそうです。祈る前にはあれだけ心がトゲトゲしていたのに、まるでそれが嘘であるかのように、本当に心が平安になった、と言うのです。その方は、そのことを今度は嬉し涙を流しながら、喜んで報告して下さったのでした。神様の前に出て、自分の罪をすっかり告白し、涙を流した者は、神様によって慰められるのです。もう人の前で敢えて悲しむ必要はありません。私たちは、こういう救い主イエス・キリストが既においでになった喜びの時、祭の中を生きているのです。

 私たちは、イエス様を信じた後も、しばしば罪深いことを考えたり、言うべきではない言葉を口に出したり、すべきではない行動をしてしまいます。後になって「またやってしまった!」と自分で自分を責め立てることがあります。こんなに罪深い自分では、神様に見捨てられてしまうのではないか、もう神様は愛して下さらないのではないか、と罪が私たちの救いの確かさを揺さぶるのです。しかし、その嘆きや悲しみを、神様の前に正直に差し出すならば、私たちは、神様によって慰められます。その涙を神様によって拭っていただけるのです。何故ならば、イエス・キリストを信じる者の罪は、イエス・キリストが全部十字架の上で贖って下さったからです。私たちは、イエス様を信じた後も、なお罪を犯します。しかしイエス様は、私たちが罪を犯す度に、神様の前に十字架の贖いを差し出しながら、「私があの人の罪を全部償いましたから、どうかあの人の罪を赦してあげて下さい」と執り成し続けて下さるのです。神様は、世間の人がよくするように、私のことがよく分からないままに、私を買いかぶっているわけではありません。私の内側の醜さを全部知りながら、キリストの十字架の故に私を赦し、私を愛して下さるのです。そうであるならば、どんなに人が私を責め立てようと、あるいは自分で自分を責めよm4うと、あるいはサタンが私を責め立てて神様の前に訴えようと、神様は私のことを決して罪に定めない。もう安心なのです。

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