13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。マタイによる福音書 6章13節 この「誘惑」という言葉は、時には「試練」と翻訳されることもあります。また「試み」と翻訳されることもあります。そして、その中心的な意味は、やはり「試み」でありましょう。つまり、今、私たちが祈っている「主の祈り」の言葉、「我らを試みにあわせず」というのが一番正確な翻訳ではないかと私は思います。「試み」というのは「テスト」という意味です。誘惑によってテストされる人もいるでしょう。試練によってテストされる人もいるかもしれません。そういうテストによって、その人が神様に従って生きる人であるかどうか、あるいは信仰を守り通すことが出来る人であるかどうか、というその人の本当の姿が現われてくるのです。これが「試み」という言葉の意味です。何もない時には、クリスチャンは皆、真面目で立派な人に見えるのかもしれません。しかし試練の時、苦しみの時、あるいは誘惑の時に、その人が本当はどんな人間であるかが明らかにされる。これが「試み」なのです。 しかし、どうでしょうか。皆様は、そういうテストを受けたいと果たして思われるでしょうか。おそらく、自分の信仰が本当に試されるようなテストならば、誰も進んで受けたいとは思わないでしょう。昔、戦国時代の武将の一人に山中鹿之助という人がいました。彼は「我らに七難八苦を与えたまえ」と、いつも祈っていたと言います。非常に勇ましい姿ですね。けれどもクリスチャンは、そういう祈りは決してしません。何故ならば、私たちクリスチャンは、自分の弱さをちゃんと知っているからです。もし神様が私たちを本気でテストされたならば、もう私たちはひとたまりもありません。そのことを私たちはちゃんと自覚しているのです。ですから、そんなテストは受けたくないと思う。これは当然のことでしょう。これは弱虫であるとか、臆病であるということとは全く別次元の問題なのです。 この「私たちを試みに遭わせないで下さい」という祈りは、つきつめて言うならば、「そういうテストから私を守って下さい」という祈りです。自分が弱い者であることを素直に認め、「神様、どうか私の地金が現われるようなテストをなさらないで下さい」、「もし本当にテストされたならば、私は罪人の本性を現してしまいます。ですから、そうならないように、どうか私をお守り下さい!」と私たちは祈るのです。試練や誘惑は必ずやってきます。けれども、「私の地金が試され、私の本性が現れてしまうようなテストからは、どうか私たちをお守り下さい!」と私たちは祈るのです。 幼い子供は、階段を上ったり、下りたりするのが大好きです。この教会でも、時々そういう光景を見ることがあります。そういう時には、大抵、親が後ろにいて、手を添えながらその様子を嬉しそうに見ています。幼い子供は、自分の実力で階段を上ったり、下(お)りたりしますが、失敗したなら必ず親が支えてくれるのです。親は、幼い子供の成長する姿を、その目でしっかりと確かめたいのです。けれども、親はその子を最後まで試すようなことはしません。危なくなったなら、すぐに手を差し伸べるのです。このように幼子は実力を試されているようでいて、実はそうではないのです。 私たちは、様々な苦しみや誘惑に出会う時に、階段から転げ落ちるかのように信仰からずれ落ちてしまうのではないかと不安になることがあります。「神様、私がこんなに危険な場所にいるというのに、あなたは私を支えて下さらないのですか!」と言いたいのです。けれども、本当は、幼子の背中に母親の手が添えられているように、神様は私たちをちゃんと支えておられます。私たちが転び落ちそうになった時には、必ず支えて下さるのです。 パウロという人は、このように言いました。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への手紙一10:13)。 確かに、この世には試練と言われるものがあります。しかし、神様はそれと同時に逃れる道をも備えて下さる、私たちの地金が現れるようなテストからは守って下さる、と言うのです。これはパウロ自身が実際に味わっていた経験でした。パウロは、コリントの信徒への手紙第二のところでこうも言っています。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐(しいた)げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(コリントの信徒への手紙二4:8)。パウロの経験によると、様々な苦しみや悲しみ、悩みを経験したけれど、それによって自分がテストされ、自分の弱さがさらけ出されることはなかった、と言うのです。それでパウロは、「苦難をも誇りとします」という有名な言葉を語りました。「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5:3-5)。 神様が私たちに試練をお与えになるのは、私たちをつぶすためではありません。私たちの信仰から不純物を取り除き、その信仰を練り上げるため、成長させるためです。またその中で神様の御業が現されるためであります。これが様々な試練をくぐりぬけてきたパウロの実感でした。そしてこれは、幾つかの試練をくぐり抜けてきた私たちにとっても、素直に「アーメン」と言えることではないでしょうか。 日々の苦しみや戦いの中で、「私たちの地金が現れませんように。私たちの力ではなく、神様、あなたの力が、あなたの御業がこの私に現れますように。そしてそのことを通して、あなたの御名が崇められますように!」という、この「主の祈り」を日々真剣に祈りながら、決して諦めることなく、日々の戦いを雄々しく戦い抜いていきたいと思います。 2025年度 説教要約 一覧 新約聖書 『マタイによる福音書』
礼拝に来てみませんか? 千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。 ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。
この「誘惑」という言葉は、時には「試練」と翻訳されることもあります。また「試み」と翻訳されることもあります。そして、その中心的な意味は、やはり「試み」でありましょう。つまり、今、私たちが祈っている「主の祈り」の言葉、「我らを試みにあわせず」というのが一番正確な翻訳ではないかと私は思います。「試み」というのは「テスト」という意味です。誘惑によってテストされる人もいるでしょう。試練によってテストされる人もいるかもしれません。そういうテストによって、その人が神様に従って生きる人であるかどうか、あるいは信仰を守り通すことが出来る人であるかどうか、というその人の本当の姿が現われてくるのです。これが「試み」という言葉の意味です。何もない時には、クリスチャンは皆、真面目で立派な人に見えるのかもしれません。しかし試練の時、苦しみの時、あるいは誘惑の時に、その人が本当はどんな人間であるかが明らかにされる。これが「試み」なのです。
しかし、どうでしょうか。皆様は、そういうテストを受けたいと果たして思われるでしょうか。おそらく、自分の信仰が本当に試されるようなテストならば、誰も進んで受けたいとは思わないでしょう。昔、戦国時代の武将の一人に山中鹿之助という人がいました。彼は「我らに七難八苦を与えたまえ」と、いつも祈っていたと言います。非常に勇ましい姿ですね。けれどもクリスチャンは、そういう祈りは決してしません。何故ならば、私たちクリスチャンは、自分の弱さをちゃんと知っているからです。もし神様が私たちを本気でテストされたならば、もう私たちはひとたまりもありません。そのことを私たちはちゃんと自覚しているのです。ですから、そんなテストは受けたくないと思う。これは当然のことでしょう。これは弱虫であるとか、臆病であるということとは全く別次元の問題なのです。
この「私たちを試みに遭わせないで下さい」という祈りは、つきつめて言うならば、「そういうテストから私を守って下さい」という祈りです。自分が弱い者であることを素直に認め、「神様、どうか私の地金が現われるようなテストをなさらないで下さい」、「もし本当にテストされたならば、私は罪人の本性を現してしまいます。ですから、そうならないように、どうか私をお守り下さい!」と私たちは祈るのです。試練や誘惑は必ずやってきます。けれども、「私の地金が試され、私の本性が現れてしまうようなテストからは、どうか私たちをお守り下さい!」と私たちは祈るのです。
幼い子供は、階段を上ったり、下りたりするのが大好きです。この教会でも、時々そういう光景を見ることがあります。そういう時には、大抵、親が後ろにいて、手を添えながらその様子を嬉しそうに見ています。幼い子供は、自分の実力で階段を上ったり、下(お)りたりしますが、失敗したなら必ず親が支えてくれるのです。親は、幼い子供の成長する姿を、その目でしっかりと確かめたいのです。けれども、親はその子を最後まで試すようなことはしません。危なくなったなら、すぐに手を差し伸べるのです。このように幼子は実力を試されているようでいて、実はそうではないのです。
私たちは、様々な苦しみや誘惑に出会う時に、階段から転げ落ちるかのように信仰からずれ落ちてしまうのではないかと不安になることがあります。「神様、私がこんなに危険な場所にいるというのに、あなたは私を支えて下さらないのですか!」と言いたいのです。けれども、本当は、幼子の背中に母親の手が添えられているように、神様は私たちをちゃんと支えておられます。私たちが転び落ちそうになった時には、必ず支えて下さるのです。
パウロという人は、このように言いました。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への手紙一10:13)。
確かに、この世には試練と言われるものがあります。しかし、神様はそれと同時に逃れる道をも備えて下さる、私たちの地金が現れるようなテストからは守って下さる、と言うのです。これはパウロ自身が実際に味わっていた経験でした。パウロは、コリントの信徒への手紙第二のところでこうも言っています。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐(しいた)げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(コリントの信徒への手紙二4:8)。パウロの経験によると、様々な苦しみや悲しみ、悩みを経験したけれど、それによって自分がテストされ、自分の弱さがさらけ出されることはなかった、と言うのです。それでパウロは、「苦難をも誇りとします」という有名な言葉を語りました。「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5:3-5)。
神様が私たちに試練をお与えになるのは、私たちをつぶすためではありません。私たちの信仰から不純物を取り除き、その信仰を練り上げるため、成長させるためです。またその中で神様の御業が現されるためであります。これが様々な試練をくぐりぬけてきたパウロの実感でした。そしてこれは、幾つかの試練をくぐり抜けてきた私たちにとっても、素直に「アーメン」と言えることではないでしょうか。
日々の苦しみや戦いの中で、「私たちの地金が現れませんように。私たちの力ではなく、神様、あなたの力が、あなたの御業がこの私に現れますように。そしてそのことを通して、あなたの御名が崇められますように!」という、この「主の祈り」を日々真剣に祈りながら、決して諦めることなく、日々の戦いを雄々しく戦い抜いていきたいと思います。