罪を赦してください
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- 説教
- 吉田謙 牧師
12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように
マタイによる福音書 6章12節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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マタイによる福音書の「主の祈り」は、「私たちの負い目を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という祈りになっています。私たちがいつも祈っている「主の祈り」では、「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈っています。文語調ですから、少々言葉づかいは違いますが、祈っている内容は同じです。私たちも、「主の祈り」を祈るごとに、「自分に負い目のある人を赦します!」と祈っているのです。これはよくよく考えてみると、本当に凄いことを祈っているのです。
私たちは、誰しも、あの人の顔、この人の表情を思い浮かべる時に、心穏やかでいることができず、息がつまりそうな痛みや傷を人知れず抱え込んでいると思います。もしこの祈りを祈る時に、そういう一番赦すことのできない人の顔を思い浮かべながら祈ったとするならば、どうでしょうか。やはり私たちも口ごもったり、歯切れが悪くなったりするのではないかと思います。
けれども、その反面、私たちの「敵を赦す」行為は、私たちの赦しの前提条件ではありません。私たちの罪が赦されるただ一つの根拠は、イエス・キリストの十字架です。キリストの十字架なしに私たちの罪が赦されることはないのです。これも事実です。では、この祈りは、どう理解すればよいのでしょうか。「私たちは神様からの全く無条件の赦しをいただくのだから、その神様の大きな赦しの中で、私たちも少しずつ人を赦す者へと変えられていく!」大抵の場合、この祈りは、そのように説明されます。確かにその通りでしょう。神様の赦しは、全く無条件の赦しです。私たちが赦したから、神様も赦して下さるというものでは決してありません。しかし、たとえそうだからと言って、この「主の祈り」を、ただそのようにして理解するだけでよいのでしょうか。やはり、それだけでは、この「主の祈り」の心を本当に理解したことにはならないと私は思います。
この祈りにおいては、「私が人の罪を赦す」ということと「私の罪を赦して下さい」という祈りが、明らかに一つに結び合わされています。現に今日の15節のところには、「もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」とも言われています。やはり、人の罪を赦すという行為が、私たちには求められているのです。私たちは、真剣に人を赦そうという戦いに実際に取り組み、悩み、苦しみ、打ちのめされて初めて、自分の罪深さを本当の意味で知ることが出来るのではないかと思います。そして、その時に初めて、「主よ、どうか、私の罪をお赦しください」と私たちも真剣に祈ることが出来るのです。そういう意味では、私たちが人の罪を赦すことと、「私たちの罪を赦してください」と神様に祈ることとは、一体的なことなのです。つまり、人の罪を赦そうともしないで、この祈りを祈ることは出来ない、ということでしょう。
マタイによる福音書の「主の祈り」においては「罪」のことが「負い目」という言葉で言い表されています。「負債」と翻訳されている聖書もあります。罪とは、借金、負債のようなものだ、という理解がここには込められています。罪を赦す、それは負債を免除する、借金を帳消しにする、ということです。借金を帳消しにするということは、貸したお金は戻って来ない、つまり、貸した人が大損をすることです。神様は私たちの罪、即ち負債を赦すために大きな犠牲を払って下さいました。それが、他でもない御子イエス・キリストの十字架の苦しみと死でした。神様がこんなにも大きな犠牲を払って下さったのですから、私たちも、当然、ゆるしに生きるべきなのです。
マタイによる福音書18章23節以下に、イエス様が語られた「一万タラントン許された僕の譬え話」が記されています。王様から一万タラントンの借金を背負った人が、その借金を許してもらったのです。一万タラントンというのは二十万年分の賃金に相当します。つまり、これは天文学的な数字であり、どんなに頑張ってみても絶対に返すことのできない金額なのです。彼はそれほどまでに莫大な借金を王様に許してもらったのです。ところが彼は、百デナリオンの貸しのある仲間を見つけ、「借金を返せ」と迫り、ついには彼を牢獄に投げ込んでしまったのでした。百デナリオンは、今のお金に換算すると百万円前後と言われます。これも貸した方からすれば大金だったでしょう。けれども、一万タラントン許されたことを考えれば、それは微々たるお金です。一万タラントン許された人だけが、百デナリオンは微々たるお金だと思うのです。神様が聖なる怒りを燃やされながら、私たちを赦して下さったその赦しは、もう想像を絶する大きな赦しでした。それはご自分の独り子を十字架につけなければ赦すことが出来ない、それほどまでに大きな大きな赦しです。神様は私たちを赦すために、それほどまでに大きな犠牲を払って下さったのです。勿論、私たちが人を許す時にも、相当な覚悟が必要でしょう。けれども、それはこの神様が独り子を十字架につけた痛みからすれば、ほんの微々たる痛みです。この神様の大きな赦しによって生かされていることを知っている人は、たとえ少々の痛みが伴ったとしても、また完全には赦すことが出来なかったとしても、決して諦めることなく、まずは敵を赦す戦いへと出て行くはずです。
以前ある方が、一日の終わりに祈る時には、「神様、見ての通り、相変わらずの私です。また同じ過ちを犯してしまいました。また人を罵倒してしまいました。どうかお赦し下さい!」と、いつもいつも懺悔の祈りを繰り返しています、と言われていました。勿論、過ちを繰り返すことは決して良いこととは言えません。けれども、そうやって日々祈ることが出来るというのは、本当に素晴らしいことではないかと思います。それはまだ赦すことを諦めていない、ということでしょう。赦す戦いを諦めていないのです。私たちも、まずは、そこから始めたいと思います。
人を赦すことは確かに簡単なことではありません。大きな損失があります。戦いがあります。苦しみがあります。けれども、実際にそういう戦いの中で苦しんでいる人は、神様が私たちを赦すために、どんなに大きな犠牲を支払ってくださったのかがよく分かってくると思います。それが大切なのです。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように!」というこの祈りは、そういう赦しの戦いの中でこそ生きてくる祈りなのです。