10 御心が行われますように、天におけるように地の上にも。マタイによる福音書 6章10節後半 今、私たちは、「あなた方はこう祈りなさい」とイエス様が直々に教えて下さった「主の祈り」を学び続けています。今日は、この「主の祈り」の三番目の祈り、「御心が行われますように」という祈りを学びます。ここで言う「御心」というのは、神様のご意志という意味です。ですから「御心が行われますように」という祈りは、「神様のご意思が実現しますように」という祈りなのです。これは、神様に対する深い信頼を表しています。神様は私を愛し、また人々を愛しておられます。それで私たちは神様の御心が行われることが、人々にとっても、また私自身にとっても、一番善いことなのだと信じ、この祈りを祈るのです。もし、神様の御心が、正義を行い、罪人を裁いて滅ぼすことであるならば、私たちは「御心が行われますように」と安心して祈ることは出来ません。罪人であっても赦し、愛し、憐れんで下さる神様であるからこそ、私たちはこのお方に信頼し、「あなたのご意思が実現しますように」と祈ることが出来るのです。 しかし、この祈りには、もう一つの側面があります。私たちは、ただ「神様のご意思が実現しますように」と祈るだけではなくて、「その神様のご意志が、他でもないこの私を通して実現しますように!」と祈るのです。どこかで、誰かを通して神様のご意志が実現するというだけではなくて、「他でもないこの私を通して、その神様のご意志が実現しますように!」と祈るのです。 神様の愛の御心を私自身が行うというのは、本当に難しいことではないかと思います。神様の愛は、あの十字架上で最も鮮やかに現されました。神様が私たちを愛される時に、そこにはご自分の独り子を十字架につけるという凄まじいまでの犠牲が払われたのです。「私にもこの神様の愛の御心に倣う者とならせてください」と祈るのは、やはり激しい信仰の戦いを覚えながら祈らなければならないと思います。そしてこの祈りの一番の模範は、やはりあのイエス様がゲツセマネの園で祈られた祈りではないかと思います。マタイによる福音書26章36節以下の記事です。イエス様は、十字架にかけられる前の夜に、ゲッセマネという園(その)で、悲しみもだえながら祈られました。ルカによる福音書の平行箇所によると、イエス様は血のしたたりのような汗を流しながら祈られた、とも言われています。「父よ、できることなら、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに!」とイエス様は祈られたのでした。ここでイエス様は「父よ」と呼びかけておられます。イエス様こそ、本来神様のことを父と呼ぶことのできる唯一のお方なのです。神様の御心が父としての愛の御心であることを、誰よりもよく知っておられるのは、ただイエス・キリストお一人だけでありましょう。けれども、そのイエス様が、今、死ぬばかりに悲しいと嘆いておられます。そして、「できることなら、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください」と祈り求めておられるのです。捕えられ、十字架につけられて殺される、つまり、本来、私たちが受けなければならなかった神様の怒りと呪いを一身に引き受けて、神様から完全に見捨てられ、地獄の苦しみを味わうというのは、イエス様にとっても、耐え難い苦しみであったと思います。これは、たとえイエス様であっても、神様の父としての愛の御心を見失ってしまうような壮絶な出来事でした。目の前にあるこの現実のどこに、神様の愛の御心があるのか、と思わざるを得ない。ところが、その苦しみの中でイエス様は、のたうち回りながらも、最終的には、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに!」と祈られたのでした。こうしてイエス様は、ついに十字架の死への道行きを歩み通され、そのことによって、私たちの罪を赦す神様の愛の御心が実現していったのです。私たちは、自分に対する神様の愛の御心を見失ってしまう時に、このイエス様の祈りの戦いを思い起こさねばならないと思います。神様の独り子であられるイエス・キリストご自身が、苦しみの中で、「御心が行われますように」と祈られたのです。そして、その御心は、つまり御子イエス・キリストに対して神様が計画しておられたことは、この苦しみの杯(さかずき)を過ぎ去らせることではなくて、御子イエス・キリストがこの杯(さかずき)を飲み干すこと、即ち捕えられ、苦しみを受け、十字架にかけられて殺されることだったのです。しかし、そのことによって、神様の愛の御心が実現していったのでした。このように神様の御心は、私たちがこうなって欲しいと願っていることとは大きく食い違っていることが多いのです。そして、それは私たちにとって、苦しみや悲しみと感じられることが結構多いのではないかと思います。けれども、そこに最終的に実現していくのは、神様の愛の御心なのです。 以前にもお話ししましたように、この「主の祈り」は、決して決意表明ではありません。「どうか、あなたの御心を行うことが出来ますように」と私たちは願うのです。イエス様は、「このことについても、あなた方は願ってよい」と私たちを励まして下さいました。「どうしても、今の苦しい状況が私にとって最善の道とは思えないので、納得できるまでは、この祈りは祈ることが出来ません!」と言われる方が時々いらっしゃいます。しかし、それはとんでもない誤解です。納得できないからこそ、その思いを引きずりながらも祈るのです。「主よ、どうかあなたの御心を教えて下さい。そして、喜んでそのあなたの御心を行うことが出来ますように」と。私たちは、自分の力で自分の願いや望みを打ち砕くことなど出来ません。神様の力に頼らなければ、自分の願いを打ち砕き、神様に従うことなど出来ないのです。「神様、どうか私を造り替えて下さい!」、「私の自分勝手な思いを打ち砕き、あなたが計画された道を喜んで歩むことが出来ますように!」、「どうか、あなたの御心が行われますように!」と私たちは神様にお願いするのです。これは決して決意表明ではありません。そうではなくて、これは私たちが自分の弱さを知り、その弱さを告白しながら、神様に切に願う願いです。イエス様は、この「主の祈り」の中で「あなた方はこう願ってよいのだ」と私たちを励まして下さいました。そして、この願いを許して下さった神様は、実際に私たちを造り替えて、御心を行わせて下さいます。きっと皆様も神様が造り替えて下さることでしょう。弱く、罪深く、頑なな心にガッカリしないで、諦めないで、「この私を通して、神様の愛の御心が行われますように」と、確信をもって祈り続けていきたいと思います。 2025年度 説教要約 一覧 新約聖書 『マタイによる福音書』
礼拝に来てみませんか? 千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。 ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。
今、私たちは、「あなた方はこう祈りなさい」とイエス様が直々に教えて下さった「主の祈り」を学び続けています。今日は、この「主の祈り」の三番目の祈り、「御心が行われますように」という祈りを学びます。ここで言う「御心」というのは、神様のご意志という意味です。ですから「御心が行われますように」という祈りは、「神様のご意思が実現しますように」という祈りなのです。これは、神様に対する深い信頼を表しています。神様は私を愛し、また人々を愛しておられます。それで私たちは神様の御心が行われることが、人々にとっても、また私自身にとっても、一番善いことなのだと信じ、この祈りを祈るのです。もし、神様の御心が、正義を行い、罪人を裁いて滅ぼすことであるならば、私たちは「御心が行われますように」と安心して祈ることは出来ません。罪人であっても赦し、愛し、憐れんで下さる神様であるからこそ、私たちはこのお方に信頼し、「あなたのご意思が実現しますように」と祈ることが出来るのです。
しかし、この祈りには、もう一つの側面があります。私たちは、ただ「神様のご意思が実現しますように」と祈るだけではなくて、「その神様のご意志が、他でもないこの私を通して実現しますように!」と祈るのです。どこかで、誰かを通して神様のご意志が実現するというだけではなくて、「他でもないこの私を通して、その神様のご意志が実現しますように!」と祈るのです。
神様の愛の御心を私自身が行うというのは、本当に難しいことではないかと思います。神様の愛は、あの十字架上で最も鮮やかに現されました。神様が私たちを愛される時に、そこにはご自分の独り子を十字架につけるという凄まじいまでの犠牲が払われたのです。「私にもこの神様の愛の御心に倣う者とならせてください」と祈るのは、やはり激しい信仰の戦いを覚えながら祈らなければならないと思います。そしてこの祈りの一番の模範は、やはりあのイエス様がゲツセマネの園で祈られた祈りではないかと思います。マタイによる福音書26章36節以下の記事です。イエス様は、十字架にかけられる前の夜に、ゲッセマネという園(その)で、悲しみもだえながら祈られました。ルカによる福音書の平行箇所によると、イエス様は血のしたたりのような汗を流しながら祈られた、とも言われています。「父よ、できることなら、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに!」とイエス様は祈られたのでした。ここでイエス様は「父よ」と呼びかけておられます。イエス様こそ、本来神様のことを父と呼ぶことのできる唯一のお方なのです。神様の御心が父としての愛の御心であることを、誰よりもよく知っておられるのは、ただイエス・キリストお一人だけでありましょう。けれども、そのイエス様が、今、死ぬばかりに悲しいと嘆いておられます。そして、「できることなら、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください」と祈り求めておられるのです。捕えられ、十字架につけられて殺される、つまり、本来、私たちが受けなければならなかった神様の怒りと呪いを一身に引き受けて、神様から完全に見捨てられ、地獄の苦しみを味わうというのは、イエス様にとっても、耐え難い苦しみであったと思います。これは、たとえイエス様であっても、神様の父としての愛の御心を見失ってしまうような壮絶な出来事でした。目の前にあるこの現実のどこに、神様の愛の御心があるのか、と思わざるを得ない。ところが、その苦しみの中でイエス様は、のたうち回りながらも、最終的には、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに!」と祈られたのでした。こうしてイエス様は、ついに十字架の死への道行きを歩み通され、そのことによって、私たちの罪を赦す神様の愛の御心が実現していったのです。私たちは、自分に対する神様の愛の御心を見失ってしまう時に、このイエス様の祈りの戦いを思い起こさねばならないと思います。神様の独り子であられるイエス・キリストご自身が、苦しみの中で、「御心が行われますように」と祈られたのです。そして、その御心は、つまり御子イエス・キリストに対して神様が計画しておられたことは、この苦しみの杯(さかずき)を過ぎ去らせることではなくて、御子イエス・キリストがこの杯(さかずき)を飲み干すこと、即ち捕えられ、苦しみを受け、十字架にかけられて殺されることだったのです。しかし、そのことによって、神様の愛の御心が実現していったのでした。このように神様の御心は、私たちがこうなって欲しいと願っていることとは大きく食い違っていることが多いのです。そして、それは私たちにとって、苦しみや悲しみと感じられることが結構多いのではないかと思います。けれども、そこに最終的に実現していくのは、神様の愛の御心なのです。
以前にもお話ししましたように、この「主の祈り」は、決して決意表明ではありません。「どうか、あなたの御心を行うことが出来ますように」と私たちは願うのです。イエス様は、「このことについても、あなた方は願ってよい」と私たちを励まして下さいました。「どうしても、今の苦しい状況が私にとって最善の道とは思えないので、納得できるまでは、この祈りは祈ることが出来ません!」と言われる方が時々いらっしゃいます。しかし、それはとんでもない誤解です。納得できないからこそ、その思いを引きずりながらも祈るのです。「主よ、どうかあなたの御心を教えて下さい。そして、喜んでそのあなたの御心を行うことが出来ますように」と。私たちは、自分の力で自分の願いや望みを打ち砕くことなど出来ません。神様の力に頼らなければ、自分の願いを打ち砕き、神様に従うことなど出来ないのです。「神様、どうか私を造り替えて下さい!」、「私の自分勝手な思いを打ち砕き、あなたが計画された道を喜んで歩むことが出来ますように!」、「どうか、あなたの御心が行われますように!」と私たちは神様にお願いするのです。これは決して決意表明ではありません。そうではなくて、これは私たちが自分の弱さを知り、その弱さを告白しながら、神様に切に願う願いです。イエス様は、この「主の祈り」の中で「あなた方はこう願ってよいのだ」と私たちを励まして下さいました。そして、この願いを許して下さった神様は、実際に私たちを造り替えて、御心を行わせて下さいます。きっと皆様も神様が造り替えて下さることでしょう。弱く、罪深く、頑なな心にガッカリしないで、諦めないで、「この私を通して、神様の愛の御心が行われますように」と、確信をもって祈り続けていきたいと思います。