日曜朝の礼拝「復讐してはならない」

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復讐してはならない

日付
説教
吉田謙 牧師
38 あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
マタイによる福音書 5章38節-42節

「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい!」この御言葉は、聖書をあまり知らない人であっても、よく耳にする言葉ではないかと思います。この御言葉は、これまで多くの人々の魂を揺さぶり続けてきました。あの有名なロシアの文豪トルストイは、この御言葉に心動かされ、彼の平和思想を語りました。インドの独立の父、マハトマ・ガンジーは、トルストイを通して、この言葉を知り、彼の無抵抗主義の運動を展開していったそうです。私たちも、この御言葉を読む時に、「できれば私もこのように生きてみたい!」と思います。しかし、そうやって心動かされると同時に、もう一方では、「この御言葉はあまりにも現実離れしていて、到底、私たちには実践できるものではない!」と思ってしまうのです。

 では、この御言葉は、どのように受けとめればよいのでしょうか。先週も少しお話ししましたように、このイエス様の山上の説教は、その通りに行いなさいという法律の条文のようなものではなくて、このような衝撃的な言い回しを通して、イエス様にはどうしても伝えたいメッセージがあった、ということです。イエス様は、こういう言い方を通して、むしろ「あなた方は、自らの内側にこびりついている罪や汚(けが)れと真剣に向き合い、それと絶えず戦うように!」と勧められたのでした。

 イエス様は、法律で制限されるような仕方ではなくて、もっと心の奥深いところで、復讐心や恨みから解放されるように、と弟子たちに教えられたのです。その解放のされ方は、右の頬を打たれたなら、左の頬を差し出すことが出来るほどに、全く自由に、恨みや復讐心から解放されなければならない、ということです。勿論、ある時は、イエス様が十字架の前日の裁判の席でなさったように、不当な仕打ちに対しては、抗議してもよいのです。しかし、その抗議は恨みや復讐心から全く解放されたものでなければなりません。これは本当に難しいことですね。しかしイエス様は、決して無責任な言葉を語られたのではなくて、自らその模範を示して下さいました。

 大祭司の手下がイエス様の頬を打った時に、イエス様は確かに抗議なさいました。しかしイエス様は、その時、恨みや復讐心からは全く解放されていたのです。イエス様が抗議なさったのは、ご自分が正しい存在として十字架につけられることを明かにするためでした。「正しいことを言ったのなら、なぜ私を打つのか?!」(ヨハネによる福音書18:23)と主張されながら、ご自分が罪のない正しい者として十字架にかかることを明らかにされたのです。この時のイエス様には、恨みや復讐心は全くありませんでした。それは、明くる日に十字架に釘付けられた時のイエス様のお姿を見れば一目瞭然です。聖書は、イエス様が十字架に張り付けにされた時に、その張り付けにした人々のために、このように祈られたという有名な御言葉を伝えています。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23:34)。頬をぶたれた時に、「何をするのか」と抗議なさったイエス様が、手に釘を打たれた時には、一言も抗議なさらず、ただ「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたのでした。これがイエス様が私たちに示された模範です。全く自由なのですから、抗議すべき時には抗議することができます。まるでマニュアルに従う人間のように、いつでも「頬を打たれたなら、別の頬を差し出さなければならない」と、はらわたが煮えくりかえりながらも、我慢しながら別の頬を差し出すのではありません。抗議すべき時には抗議し、十字架につかれる時には、釘打つ者のために祈ることが出来る。これがイエス様の模範でした。

 私たちは、このイエス様の模範をしっかりと心に刻んでおきたいと思います。私たちは、十字架に釘付けにされるほどに、ひどい仕打ちを受けることはありません。けれども、小さな約束違反や、お互いの考え方の違い、思いやりの欠けた一言によって、私たちの心は深く傷付くことがあります。あるいは、そういうことによって私たちの心に正義感が燃え上がり、赦すことが出来ないことがある。自分ではこれは本当に正しい憤りである、と思いながらも、実は私たちの内側に、恨みや復讐心が募っていくことがあるのです。家族の中で、職場や学校の中で、近所づきあいの中で、教会の中で、自分だけが正しいと思い、間違っているのは相手の方だとすぐに決めつけてしまうのです。この私に逆らう者は決して赦すことが出来ない。ぎゃふんと言わせたいと思う。これは呪いの心です。そこで私たちが知らなければならないことは、その度に私たちは、イエス・キリストを十字架につけているのだ、ということです。他でもない、この私がイエス様を十字架につけたのです。けれども、主はそんな私たちをもお見捨てにならず、深く深く憐れんで下さいました。そんな愚かな私たちのためにイエス様は、十字架の上で祈って下さったのです。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』と。

 私たちは、自分に向けられた他人のちょっとした言葉や行為に対しても、中々赦すことができず、憎しみを抱いたり、罵(ののし)り返したりする者たちです。そういう意味では、今日のイエス様の教えは、私たちにとって、到底、実現できるものではありません。けれども、このイエス様の十字架のお姿に感動し、このイエス様を信じ、このイエス様の十字架の愛にすっぽりと包まれながら、繰り返し、このイエス様の十字架の恵みを自分に当てはめて生きていく時に、私たちの生活は、少しずつではあっても、確実に変えられていくのではないかと思います。

 「山上の説教はイエス様の教育方針なのだ」と、よく言われたりします。山上の説教は、イエス様が私たちを「このように造り変える!」と宣言して下さった教育方針なのです。このイエス様の教育方針は、私たちが心を開きさえすれば、主によって実行され続けます。

 私たちは、弱い者ですから、自分の力で精進し、復讐心から自由になることなど出来ません。それは到底不可能です。けれども主は、キリストの十字架の愛を、繰り返し私たちに注ぎ続けるという仕方で、私たちを少しずつ造り替えて下さるのです。そのことを信じ、何度失敗しても諦めることなく、このイエス様の教えに生き続けたいと思います。

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