日曜朝の礼拝「異邦人の救い」

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異邦人の救い

日付
説教
吉田謙 牧師
9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
マタイによる福音書 2章1節-12節

 マタイは、東の国の占星術の学者たちが、不思議な星に導かれて、遠い国からはるばるユダヤの国まで旅を続け、ついには幼子イエス様を見つけ出し、黄金、乳香、没薬を捧げて礼拝した、という物語を伝えています。この東の国というのは、おそらくアッシリアかバビロン、あるいはペルシャであっただろうと言われています。昔、ユダヤの国は、アッシリアやバビロン、ペルシャの国に占領されたという悲惨な経験をしました。言うなればこれらの国は、ユダヤ人にとっては憎き敵国だったのです。そういう憎き敵国からやって来た人たちが、ユダヤ人を差し置いて、幼子イエス様を礼拝した、と言うのです。それだけではありません。彼らは占星術の学者たちでした。星占いは、当時、神様の御心を試すものとして絶対に退けるように、とユダヤ人たちは厳しく戒められていたのです。ところが、この約束の救い主イエス・キリストを最初に礼拝したのは、自分たちこそ神様に選ばれた神の民である、と自負していたユダヤ人たちではなくて、むしろユダヤ人たちが最も忌み嫌っていた東の国の異邦人、しかも占星術の学者たちであった、とマタイは伝えているのです。今日は特に、この東の国の占星術の学者たちに表された神様の豊かな恵みに注目したいと思います。

 彼らは、最初から正しい信仰をもって、旅に出かけたわけではありません。最初彼らは、星占いによって旅立つことを決心したのです。神様は、星占いの道が間違っていることを、よくご存知でした。しかも、彼らが、ユダヤ人ではない他の宗教を信じている異教徒であることもよくご存じでした。そういう意味から言うと、彼らには、イエス様にお会いし、その喜びを味わえるような資格など全く無かったのです。けれども、神様は彼らに対して一方的に恵みを注がれました。最初、彼らは間違った道から入っていきました。けれども、彼らは神様によって少しずつ整えられて、ついにイエス様の前にひれ伏す時には、本当の信仰をもって礼拝できる者へと造り変えられていったのです。

 そのことは、彼らが捧げた献げ物の中によく現れています。実はこの「黄金、乳香、没薬」というのは、占星術のために用いる高価な道具であった、と言われます。では彼らがその高価な道具である「黄金、乳香、没薬」を献げたというのは、どういうことでしょうか。それは、ただ単に大切な物を献げたというだけではなくて、彼らが自分たちの過ちを認めた、ということでしょう。よく考えてみると、この学者たちは、もう少し別の行動も取れたのだと思います。自分たちの星占いによって、本当の王様を見つけることが出来たのです。「私たちの知恵も大したものだ。占いの技術も立派なものだ。これで私たちの技量には神様の保証がついた。これからは『神様のお墨付き』という看板を出して商売しよう!」こう言って得意になることも出来たのです。けれども、この学者たちはそういう高慢な態度には出ませんでした。幼子イエス様にお会いした時に、自分たちがこれまで用いてきた星占いの高価な道具を、全部捧げ尽くしてしまったのです。何故でしょうか。それはおそらく、彼らが救い主を目の前にした時に、自分たちが今までやってきたことが何と罪深いものであったかを悟ったからでしょう。「星占いは間違いでした。あなたの隠された御心をのぞき見るような本当に愚かな行為でした!」と。そこで彼らは星占いの高価な道具を全部献げて、その悔い改めの気持ちを素直に表したのでした。

 私は、この占星術の学者たちが救われたということの中に、本当に大きな慰めを感じます。マタイは、この不思議な物語を通して、私たちに何を伝えようとしたのでしょうか。それは、神様が、異邦人の、しかも星の動きによって自分の行く末が定められていると考える、そういういわば偶像崇拝をしている人々を、イエス様のもとに招かれた、ということです。しかも、聖書だけではなくて、星をも用いて招かれた、と言うのです。これは本当に凄いことですね。星占いを用いて、即ち偶像礼拝をしていた、その出来事をも用いて、愛する人々を御もとに呼び寄せて下さった、と言うのです。これは私たちにとって、本当に大きな慰めではないかと思います。

 今もなお、私たちの周りには、多くの宗教があり、それらの宗教を熱心に信じている愛する者たちがいます。あるいは、特定の宗教を信じていなくても、自分の力に頼り、まるで自分が神であるかのようにして生きている人たちもいます。私たちは、そういう愛する者たちのことを覚えて、その救いのために熱心に祈っているのです。しかし、こんなに頑なでは、もうどうにもならないのではないか?!こんなに迷信的な偶像崇拝に染まっていたのでは、もう手の施しようがない!しばしば私たちは、祈り疲れて、諦めてしまうことがあるのです。けれども、大丈夫なのです。偶像礼拝をしているから駄目だというのではなくて、神様はその経験すら用いることが出来る。そして最後の最後には聖書を通して、ご自身の御もとにしっかりと引き寄せて下さるのです。これが私たちが信じている聖書の神様です。その人が立派だから、清いから、正しいから、人格者だから、知恵深いから救われるのではありません。そういう私たちの資質とは全く関係ないところで、神様の一方的な恵みによって救われるのです。

 私たちは、この神様の想像を絶する深い愛に信頼しながら、諦めることなく、愛する者の救いのために執り成し祈り続けたいと思います。

 

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