日曜朝の礼拝「その名はインマヌエル」

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その名はインマヌエル

日付
説教
吉田謙 牧師
20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」
創世記 マタイによる福音書1章18節-25節

主の天使は、生まれてくる子供を「イエス」と名付けるように、とヨセフに命じました。この「イエス」という名前は、当時のユダヤにおいては、全くありふれた名前でした。この「イエス」という名前は、当時、長男によくつける名前であった、と言われています。今の日本で言うならば「一郎」とか「一夫」といったような名前だったのでしょう。ですから、ただ「イエス」と言っただけでは、同じ名前の人が沢山いたので、誰のことを指しているのかよく分からなかった。そこで「ナザレのイエス」と呼び、他のイエスと区別しなければならなかったほどでした。しかし、ここで注目すべきことは、むしろその平凡さにあると私は思います。救い主として生まれてくる幼子に、平凡な日常性を象徴するかのような「イエス」という極々ありふれた名前をつけるように、と神様はお命じになったのです。

 私たちの思いとしては、「平凡な日常性」と「神様の救い」というのは、なかなか結びつかないと思います。何も神様の救いという大きな事柄でなくても、一般的に人は労苦が多い日常生活とは別のところに救いを求めるものでしょう。ある人にとっては、それは独身生活を卒業し、結婚生活に入ることなのかも知れません。またある人にとっては、それは今の職場から別の職場に移ることなのかも知れません。またある人にとっては、それは引っ越して別の土地に住むことなのかも知れない。要するに、今いる場所から逃れさえすれば救われる、幸せになれる、と多くの人たちは考えるのです。また、それが到底、実現不可能であると知る時に、せめて日常生活をしばし忘れさせてくれる刹那(せつな)的な快楽に救いを求めます。

 しかし、もう一方で私たちはよく知っているのです。一つの日常性から逃れたとしても、そこにはまた別の日常性が待っているということを。また一つの労苦から逃れたとしても、そこにはまた別の労苦が待っているということを。また刹(せつ)那(な)的(てき)な現実逃避をしたとしても、夢から覚めると、またそこには日常の労苦が待っているということを。私たちは、そのことを重々承知しています。分かっていても、どうすることも出来ない、これが現実ではないでしょうか。

 けれども、聖書は「非日常的な世界に救いを求めよ!」とは決して言いません。むしろ、平凡な日常を営んでいるこの世界にこそ、救い主はやって来られた、平凡な名を持つ救い主がこの世界にやって来られたのだ、と教えるのです。

 この世界は、本来、神様が造られた素晴らしい世界です。私たちも神様に造られた者であり、神様に望まれてこの世界を生き始めました。ところが私たち人間は、造られた神様に背を向けて、自分勝手な生き方をし始めたのです。その時に、この素晴らしい世界が住みづらい世界になっていった。私たちの人生も空しく、悲惨なものになっていったのです。当然のことでしょう。そもそも私たち人間は、神様と共に生きるようにと造られたわけで、その神様から離れて生き始める時に、この人生が空しくなるのは当然です。この世界が住みづらくなるのは当然であります。これは私たち人間の責任です。私たちの罪が問題なのです。そうであるならば、どこに逃れても解決はありません。カルト教団のように出家をし、自分たちだけの世界を造っても駄目なのです。何故ならば私たちが存在する限り、どこに行っても罪は私たちにつきまとうからです。

 私たちは、苦しみや労苦に満ちた日常からではなくて、罪から救われなければなりません。「イエス」という名前は確かに平凡な名前です。しかし、同時にこの名前には大切な意味が込められていました。それは「主は救い」という意味です。天使はこう言いました。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 私たちは、この「イエス」と名付けられたお方によって罪から救われる、と言うのです。「罪から救われる」、これは、罪が赦されて、神様と和解することが出来る、神様に立ち帰った者として、もう一度、神様と共に生きることが出来る、ということでしょう。イエス様はそのために来られました。私たちの罪を贖い、もう一度、私たちを神様との交わりへと回復させるために、この世にやって来られたのです。

 23節。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは旧約聖書イザヤ書7章14節の引用です。マタイは、この罪人を救う救い主イエス・キリストの誕生こそ、この預言者イザヤの預言の成就であった、と言うのです。

 さらにマタイは、この「インマヌエル」という言葉は、「神は我々と共におられる」という意味である、と解説しました。この「神は我々と共におられる」という約束こそ、旧約聖書を貫く「恵みの契約」の中心でした。そもそも旧約聖書、新約聖書の「約」というのは、翻訳の「訳」ではなくて、「契約」の「約」なのです。そしてこの神様が私たちに結んで下さった「契約」とは、「神様が私たちと共にいて下さる」という約束を伴うものでした。旧約聖書に登場する「雲の柱」や「火の柱」、「幕屋」、「神殿」は、全て「神は我々と共におられる」という神様の約束のしるし、目に見える「神様の臨在のしるし」だったのです。マタイは、この旧約聖書に記されている神様の約束が、このイエス・キリストの誕生によって成就したのだ、と言いたいのです。

 この世界を様々な不安が覆っています。私たちの様々な労苦と戦いは、これからも続くことでしょう。私たちは、人生の道のりにおいて、なお多くの涙を流さなければなりません。けれども、もう私たちは別世界に逃れていく必要はありません。また刹(せつ)那(な)的(てき)な現実逃避を求める必要もない。何故ならば、この現実の世界に、私たちの具体的な日常の生活の中に、誰にも打ち明けることの出来ない、心の一番奥深いところに、主が来て下さるからです。そこで主が共にいて下さり、共に労苦して下さり、共に涙して下さり、共に戦って下さるからであります。

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