日曜朝の礼拝「身代わりの十字架」

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身代わりの十字架

日付
説教
吉田謙 牧師
22 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。25 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
ルカによる福音書 23章13節-25節

 今日の物語は、イエス様の十字架が「身代わりの十字架であった」ということを描いている物語です。バラバの代わりにイエス様が十字架について下さいました。それこそ壮絶な鞭で打ち叩かれ、もうボロボロになって、苦しんで苦しんで苦しみ抜いた末に死んでいかなければならなかった、そのバラバがつくべき場所に、イエス様がついて下さったのです。

 おそらくバラバは、イエス様の十字架を、本来自分がつくべきはずの十字架として見ていたことでしょう。本当は、自分があの壮絶な苦しみを味わわなければならなかったのだ、と。イエス様の十字架を、本来自分がつくべきはずの十字架として見る、これは私たちにとっても本当に大切なことではないかと思います。この「バラバ」という名前には、「父の子」という意味があるそうです。このバラバの姿の中にこそ、イエス・キリストの救いに与り、父なる神様の子とされた者の姿が鮮やかに現されている、ということでしょう。

 この後、歌う讃美歌311番に、こういう歌詞があります。「主の苦しみは、わがためなり、われこそ罪に死すべきなり。かかる我が身に代わりましし、主の憐れみは、いととうとし」「私が死ぬべき罪人であった、私こそがあの十字架にかかるはずの人間であった、あのバラバとイエス様が交代したように、あの十字架の上で本来死ぬべきはずの人間は、他でもないこの私であった!」こう歌うのです。今日の物語は、私たちがこのように告白することを求めているのだと思います。

 本当は私たち自身が、神様の怒りと呪いを身に受けて、死ななければならなかったのです。このことは自分自身の心の内側を正直に見つめるならば、あるいはこれまで歩んできた自分自身の人生を振り返るならば、よく分かることではないかと思います。私たちの歩みは、恥ずべき行いや恥ずべき言葉、恥ずべき思いで一杯です。もう弁解の余地などありません。本来、私たちは神様の怒りと呪いのもとで毎日怯えながら生き続けるしかなかったのです。そして、その一生を終える時には、神様の怒りのもとで滅びる他はなかった。しばしば私たちは自分自身の歩みを振り返り、今まで自分が犯してきた様々な罪を思えば、与えられた苦しみは当然ではないか、自業自得ではないか、と思うことがあります。自分の罪に気づき、反省することは何も悪いことではありません。けれども、もしそれだけならば、そういう罪の自覚は、ただ生きる力を奪い取っていくだけでしょう。

 夏目漱石の「こころ」という有名な小説があります。この小説は罪の問題を深く突き詰めて考えた小説です。主人公の先生は、「私は罪ということをつくづく感じたのです」という遺書を残して自殺してしまいます。この主人公は、人間の罪深い人生を、インクで汚れた真っ白なテーブルクロスに例えていました。一度汚れたものは決して清くならない。これがこの主人公の人生観でした。こういう人生観は、罪を知れば知るほど惨めになり、もう自ら命を絶つしかないところへと主人公を追い込んでしまいました。この主人公の悲劇は、罪だけを知って、罪の赦しを信じることが出来なかったところにあります。しかし、キリストの福音は、「あなたの罪は赦された!」と宣言するのです。「よい行いを積み重ねていけば、あなたの罪も赦される」と言うのではなくて、「もう既に、あなたの罪は赦されている」と言うのです。何故でしょうか。神の御子イエス・キリストが私たちの身代わりとなって、私たちの罪を全部背負って、あの十字架の上で死んで下さったからです。本来私たち一人一人が受けなければならなかった神様の怒りと呪いを、独り子である神イエス・キリストが全部その身に引き受けて下さったのです。もう私たちに神様の怒りや呪いは向けられません。どんなに厳しい人生の嵐に出会ったとしても、それはもう神様に見捨てられた「しるし」ではないのです。このようにイエス様の十字架が私たちの身代わりの十字架であったことを受け止める時に、私たちには自らの罪を素直に認めるへりくだりの心と、全ての罪が赦されているという解き放たれた心が与えられるはずです。

 ある書物の中に、宗教改革者ルターの興味深い手紙が紹介されていました。この手紙は、ある過ちを犯してひどく落ち込んでいる牧師に宛てて書き送られた手紙です。この手紙を読んで感心させられたことは、ルターは決して上っ面の慰めを語っているのではない、ということです。「大丈夫。大したことはない!」と、うまく言いくるめて慰めるのではなくて、ちゃんと罪を指摘し、それをしっかりと受けとめるようにと諭しているのです。これが教会の語るべき慰めの言葉なのだ、と改めて思わされました。その手紙の中で、ルターはこういう意味のことを語っていたのです。「キリストは小さな罪しか赦すことが出来ないお方だろうか。あなたは絵に描いたような救い主を得ようとしている。キリストの救いを絵空事にしようとしている。それではいけない。あなたは呪われるべき罪人なのだ。自分の力で藻掻いてもそこから抜け出せるわけがない。キリストはそのような罪を贖うために来られたのではなかったか。もっと罪人であることに習熟していただきたい!」こういう意味のことをルターは語っていたのです。私たちも、キリストを十字架につけた、どうしようもない呪われるべき罪人です。決して、このことから目を背けてはいけないと思います。まずこのことをしっかりと受け止めましょう。その上で、キリストだけが、このとんでもない大きな罪、重い、呪われるべき違反、罪業から救い出すことの出来る唯一のお方なのだ、ということを、しっかりと心に刻みたいと思います。

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