日曜朝の礼拝「福音的生活」

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福音的生活

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説教
吉田謙 牧師
8 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。9 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
フィリピの信徒への手紙 4章8節-9節

 今日の箇所には、クリスチャンらしい実生活を送っているならば、その生活の中に神様は共にいて、私たちの生活を平安で満たして下さる、と教えてくれています。では、クリスチャンらしい実生活とは、いったいどういう生活を言うのでしょうか。今日の8節と9節のところには、二つのことが教えられています。まず一つ目は8節です。「終わりに兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」

 ここに上げられている様々な事柄は、クリスチャンに限らず、当時の人々が、理想の人間像を考える時に、必ず並べ上げた徳目である、と多くの聖書学者たちが指摘しています。パウロは、当時の人々が理想の人間像を思い描く時に並べ上げたことを、ここにまとめあげながら、あなたがたも世間の人々が理想と考える生き方にも心を留めるように、と勧めたのでした。「心に留める」というのは、大切なこととして考える、ということです。つまり、ここでパウロは、あなたがたも世間並みの真面目な生き方をしなさい、とフィリピの教会に勧めたのです。しかし何故パウロは、こんな常識的なことを語ったのでしょうか。

 この時、フィリピの教会の中には、自分たちは完全である、と考えている人々がいて、彼らが教会を混乱させていたことを、少し前にお話ししたと思います。彼らは、自分たちは異邦人でありながらも、大きな犠牲を払って割礼を受け、ユダヤ人になった者たちであり、並のクリスチャンではない、既に完全な者になった、と思い上がっていたのです。そして彼らは、ただ教会の中でおごり高ぶっていただけではなくて、世間の常識さえも足蹴にし、あざ笑っていたのでした。パウロは、今日の箇所で、彼らのそのような思い上がりをたしなめようとしているのです。ただし、ここでは「心に留めなさい」と言われています。大切に考えなさい、とは言われていますが、何が何でも、その通りに実行しなさい、とは言われていないのです。そのことに注意を払う必要があります。この世的な優等生として生きるならば、それだけで平和の神様が共にいて下さるわけではないのです。先週学んだように、私たちが平安であるためには、感謝しつつ祈ることが必須条件です。そういうことを脇に置いて、ただ世間に合わせて生きることが、平安に生きる決め手ではありません。あるいは、この後の9節のところでは、これまでパウロが教えてきたことを実行しなさい、とも言われています。これはクリスチャン独特の生き方と言えるでしょう。そういうことを脇に置いて、ただ世間に合わせて生きることが、平安に生きることの決め手ではないのです。本当に正しい祈りの生活が実践され、あるいはクリスチャン独特の生き方が実践されているならば、世間の人々から見て理想とする生き方も、自然と身についていくのではないかと思います。もし世間の人々の健全な良識から見て、顔を背けるような生活をしているならば、やはりクリスチャンとしても、どこかずれているのだと思います。そういうわけでパウロは、「世間の常識に従うことを心に留めなさい」と言いました。無条件で世間の常識に従うのではありません。そうではなくて、それを心に留めるのです。世間の常識に顔を背けるのではなくて、むしろ良いことについてはそれを追い求めるように、とパウロは教えたのでした。

 しかし、クリスチャンにはもっと積極的に実行すべきことがあります。9節。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。」

 つまり、パウロが言葉と行いによってフィリピの教会に示したことについては、その通りに実行しなさい、とパウロは勧めたのです。それでは、パウロは、これまでどんなことをフィリピの教会に教えてきたでしょうか。これまでパウロは、フィリピの教会に対して様々な教えを語ってきたと思います。それを一言で言い表すならば、「イエス・キリストへの信仰と悔い改め」ということになるでしょう。罪人のままの私を赦し、愛して下さる主イエス・キリストを信じる信仰と悔い改めです。これこそパウロが繰り返し語り続けてきたことであり、信仰生活の中心と言えるでしょう。

 私たちも、世が重んじているような生き方をしたいと切に願っています。しかし私たちは本当に弱いですから、すぐにくじけてしまうのです。しかし宗教改革者ルターは、クリスチャンの全生涯は悔い改めの連続であると言いました。全くその通りです。神様はそういう仕方で、私たちを少しずつ清め続けて下さいます。今は濁っている水たまりであっても、その奥底から透明な水が湧き出しているならば、その濁った水たまりも、やがては全体が澄み渡っていきます。それと同じように、私たちも、罪の根っこが既にキリストの十字架によって解決されているならば、少しずつ清められていくはずです。そうやって私たちは、失敗を繰り返しながらも、この神様の大きな大きな愛に包まれながら、少しずつ成長し、この世が重んじている生き方にも少しずつ近づいていくことが出来るのではないでしょうか。

 信仰と悔い改めの生活は、クリスチャンにとって、基本中の基本です。けれども、よくよく考えてみると、私たちが、諦めずに、信仰と悔い改めの生活に生き続けることが出来ているのは、決して当然のことではありません。本当は奇跡的なことではないかと思います。何度も失敗し、いくら頑張ってもらちがあかないのですから、あっさり諦めた方が楽なのです。けれども、どういうわけか私たちは、諦めることなく、赦しを請い求めながら、なお立ち向かい続けるのです。これは本当に、まどろっこしい生き方ではないかと思います。普通なら、こんなまどろっこしい生き方は御免こうむりたいと思うはずです。けれども、どういうわけか私たちは、こういう生き方へと促されています。これは将に神様の導きとしか言いようがありません。即ち私たちが、この信仰と悔い改めに生き続けることが出来ること自体、神様の恵みの御業のゆえであり、既に私たちの生活の中に、平和の神様が共に働いておられる、ということの証しなのです。

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