日曜朝の礼拝「本国は天にある」

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本国は天にある

日付
説教
吉田謙 牧師
20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
フィリピの信徒への手紙 3章15節-4章1節

 今日の箇所でパウロは、キリストを信じる者たちの生き方を、このように言い表しました。「わたしたちの本国は天にある」と。「私たちの本国は天にある」、この御言葉は、ある時には、私たちに警告を与え、またある時には、私たちに慰めを与えてくれるのではないかと思います。洗礼を受けた時には、自分にはどうしてもイエス様の救いが必要であることを痛感し、イエス様を熱心に求めていたのに、月日が経つにつれて、パウロが指摘したように、自分が救われたことにあぐらをかいてしまい、今、自分にはイエス・キリストがどうしても必要であることが、だんだんとぼやけてしまうのです。そして、そういう無防備な私たちに対して、サタンは様々なかたちで巧みに誘惑をしかけてきます。そんな時に、「私たちの本国は天にある」という御言葉によって、私たちは何度、我に帰ったことでしょう。本国が天にあることを知っている者は、その天に相応しい地上の歩み方を神様から示され、その歩みが出来るように少しずつ変えられていくのです。

 また「天国」と言うと、私たちは遠く離れたイメージを抱きやすいのではないかと思います。しかし天国というのは、神様がおられるところです。ですから、天国は遙か遠い存在ではないのです。私たちの地上での歩みは、この天に続いていて、やがて私たちも、この本国である天に帰っていくのです。その時に、全てのことが明らかにされるでしょう。今の苦しみ、今の悲しみは、決して永遠のものではありません。やがて、その苦しみや悲しみは終わり、私たちが本国である天に帰っていく時には、地上での苦しみや悲しみの意味が全部明らかにされ、私たちは永遠の喜びの中に入れられるのです。「私たちの本国は天にある!」この御言葉は、私たちが苦しみや悲しみの中に置かれた時に、どれほど慰めを与え、力づけてくれたことでしょう。

 では私たちは、この天にある本国に、どのようにして上っていくのでしょうか。前回学んだ12節から14節のところには、目標を目指してひたすら走るという私たち信仰者の生き方が教えられていました。しかし、それは私たちが天国に入る決定的な力ではありません。私たちを天の本国へと迎え入れて下さるのは、本当は私たちの救い主イエス・キリストの力によるのです。パウロは、そのことが最も明らかになる世の終わりのことを、20節の後半のところに書き記しました。「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」

 「主イエス・キリストが救い主として来られる」というのは、終わりの日の救いの完成の時のことです。この救いの完成の時は、私たちの力や努力で到達できる時ではありません。私たちは、その日をただ待つ他はないのです。クリスチャンは、完成を目指して、ただひたすら歩み続けます。しかしそれは、自分の計画、自分の力で神様の御国へと上っていくのではありません。私たちは、その救いの完成の時を、ただひたすら待つ他はないのです。

「目標を目指してひたすら走る人生」、これは神様の力によって押し出される人生です。私たちは自然体でよいのです。何も無理してシャカリキになって頑張る必要はありません。その気が無いのに、無理して頑張ろうとすると、すぐに疲れ果て、やがては潰れてしまいます。私たちは、基本的には、神様が押し出して下さる時を待てばよいのです。私たちが、週毎の礼拝の中で、あるいは日々御言葉を読み、祈る生活の中で、キリストの十字架の愛を本当に味わい知っていくならば、何も無理して頑張らなくても、その力は自然と与えられていくものでしょう。

 「目標を目指してひたすらに走る人生」、これは、本来、喜びに満ち溢れた人生です。私たちが歩むべき道を、まず神様が先頭に立ち、私たちの手を引いて導いて下さいます。後ろからは疲れ果てている私たちの背中を押して、力づけ、励まして下さいます。下からは私たちが落ちないようにしっかりと支え、守って下さいます。上からは私たちを上へ上へと召して、私たちを少しずつ成長させて下さいます。こうして私たちは、神様の恵みによって取り囲まれているのです。

 まだまだ私たちは不完全な人間ですから、時には神様の恵みが見えなくなってしまい、神様の御心が分からず、迷い出てしまうこともあるでしょう。祈っても祈っても、神様の御心がどうしても分からない、そんな時もあるのです。神様の御心が分からず、見切り発車をし、とうとう失敗してしまった。あるいは神様の御心だと信じ、突き進んでいた道が、実はそうではなくて、とんでもない道に迷い込んでしまい、大きく回り道をしてしまった。長い人生を歩んでいく中で、私たちは何度もそういう失敗を繰り返すのです。けれども、何も恐れる必要はありません。私たちは、神様の大きな恵みによって取り囲まれています。たとえ大きな失敗をしたとしても、神様にとって私たちの価値は何ら変わることがないのです。「あなたは、取り返しのつかないことをしてしまったと悔やんでいるのかもしれない。もう駄目だ、と人生を諦めかけているのかもしれない。しかし、本当はそうではない。私は、あなたが弱かった時に、不信心であった時に、敵であった時に、あなたを救うために御子を十字架に送った。決して、あなたが何かをしたからでも、何かが出来るからでもない。私にとってあなたは、存在そのものが愛おしく、価高く、尊く、誰にも替えがたい宝なのだ。もうあなたは過去の失敗や汚(けが)れや罪に、くよくよしながら生きなくてもいい。それらは全部、御子の十字架によって洗い流された。だから、あなたは勇気を出して、諦めないで、もう一度、私のもとでやり直してみなさい。新しく生きてみなさい。」このように神様は、いつも私たちを大きな恵みによって取り囲みながら、優しく励まして下さるのです。これは本当に平安なことではないかと思います。この恵みの中で、私たちは目標を目指してひたすら走るのです。ですから、何も肩肘張らなくてもよいのです。また何も恐れる必要はありません。神様の大きな愛に取り囲まれながら、神様に全てを委ねて、自然体で歩んでいけばよいのです。

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