日曜朝の礼拝「主の到来の希望」

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主の到来の希望

日付
説教
吉田謙 牧師
4 しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。5 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。6 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。7 眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。8 しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。9 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。10 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
テサロニケの信徒への手紙一 4章13節-5章11節

 今日の箇所でパウロは、キリストの再臨を待ち望むクリスチャンの心構えについて教えようとしています。ここでパウロは、あなた方は光の子なのだ、と宣言した上で、信仰と愛と希望を身につけて歩むことこそ、キリストの再臨を待ち望むクリスチャンの心掛けるべきあり方なのだ、と教えようとしているのです。ここでは、その信仰と愛と希望が、「胸当て」とか「兜」と言われていることに注目したいと思います。それらは武具です。即ち、戦いの道具です。しかし、これは槍や弓矢のように敵を攻撃してやっつけるための武具ではありません。そうではなくて、攻撃から身を守るための武具です。キリストの再臨を待ち、それに備えて生きる信仰者の歩みは、将に戦いそのものと言えるでしょう。しかし、それは敵を攻め、攻撃して打ち滅ぼすための戦いではなくて、守りの戦いなのです。私たちは、つねに私たちを眠り込ませ、酔わせ、正気を失わせようとする様々な力の攻撃にさらされています。その攻撃に耐え、目を覚まし、正気であり続けるためには、やはりこの信仰と愛と希望によって守りを固めることが肝心でありましょう。そこでパウロは、「その信仰と愛と希望の武具を身につけて、しっかりと歩み続けるように!」とテサロニケ教会の人々を励ましているのです。

 しかし、どうでしょうか。私たちは、この6節から8節のパウロの勧めを読む時に、「いったい自分はここでパウロが教えているような生き方ができているのだろうか?!」と不安になるのではないかと思います。「本当に眠り込むことなく、目覚めているのだろうか?」「醒めた、正気な者として、正しい判断を下すことが出来ているのだろうか?」「信仰と愛と希望によって、しっかりと守りを固めることが出来ているのだろうか?」そのように考えると、本当に心もとない思いがしてくるのです。しかし私たちは、ここでパウロが語ろうとしていることの趣旨を、もっと正確に理解しなければなりません。ここでパウロは、「あなたがたはこのようにして光の子になりなさい。そうすれば主の再臨を恐れることなく迎えることができる」と教えているわけではないのです。むしろパウロは、4節のところで、「あなたがたは暗闇の中にいるのではないのだから、主の再臨の日が突然あなたがたを襲って滅ぼすことはない!」と宣言しています。また5節のところでも、「あなたがたはすべて光の子、昼の子なのだ!」とはっきりと宣言しているのです。光の子、昼の子は、決して努力してそうなるべき目標ではありません。そうではなくて、イエス・キリストを信じ、教会に連なる信仰者は皆、既に光の子なのです。これは紛れもない事実です。では何故そんなことが言えるのでしょうか。そのことを語っているのが9節と10節の御言葉です。9節。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」

 神様が私たちを、イエス・キリストによる救いにあずからせるようにと定めて下さった、と言うのです。この「定める」という言葉は、「予定する」とか「選ぶ」という言葉ほどの強い意味はありません。しかし、決して曖昧な言葉ではなくて、しばしば「任命する」とか「指定する」と翻訳される言葉です。つまり、神様は私たちをイエス・キリストによる救いにあずからせるように、私たちを直々に任命して下さった、と言われているのです。これは本当に安心なことだと思います。この任命は神様の決断ですから、決して揺らぐことがありません。確かなのです。

 また10節のところには、こうも言われています。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」

 ここでパウロは、私たちを救いにあずからせるために、主は十字架の上で死んで下さった、と語っているのです。ここでパウロが十字架の恵みをあえて語っているのは、あの十字架の上で、あなたの罪を全部背負い、あなたの身代わりとなって死んで下さったイエス様が、世の終わりに、もう一度、この世に来て下さるのだ、ということを強調したかったからでしょう。私たちが主の再臨を喜び迎えることができるのは、決して私たちが特別に優れている人間だからではありません。私たちは弱い者であり、すぐに待ちくたびれて眠りこけてしまう者たちです。けれども、イエス・キリストが、そういう弱い私たちのために、私たちの罪を全部その身に背負って、十字架の上で死んで下さいました。このイエス・キリストのおかげで、私たちのような罪深く、弱い者であっても、主の再臨の時を喜び待つことが出来るのです。失敗しても、失敗しても、その度にイエス様の十字架によって赦していただきながら、終わりの日には、ちゃんとイエス様をお迎えすることが出来る。これは本当に感謝なことではないかと思います。終わりの日に、もう一度、この世にやって来られるお方は、そのようにして私たちの救いのために全てを整えて下さったお方です。そのために自らの命を犠牲にして十字架の上で死んで下さったお方です。それほどまでに、私たちのことを愛して愛して止まないお方であります。そうであるならば、たとえいつになるのかは分からなくても、決してビクビクするのではなくて、希望をもって、喜びをもって、その日を待ち続けるのは当然のことではないでしょうか。

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