日曜朝の礼拝「キリストの救い」

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キリストの救い

日付
説教
吉田謙 牧師
9 わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
フィリピの信徒への手紙 3章8節-11節

 「あります」というのは、「持っている」「手に握っている」「これだけは手に入れている」という意味です。パウロは、世の終わりの時の神の国の完成を望み見ながら、希望をもって歩んでいました。しかし、「そうやって私は、今、目標に向かって歩み続けているけれど、その間、私は何も手にしていないのではなくて、今、私にはしっかりと手に握りしめているものがある!」とパウロは言うのです。では、それはいったい何でしょうか。それは、キリストへの信仰による義、神から与えられる義です。義というのは、人間が神様から、「あなたは責められるところのない、正しい人間である!」と認めていただけるという意味です。「律法から生じる自分の義ではなく」と、ここでパウロは但し書きを書いています。「律法から生じる自分の義」というのは、律法を完全に守り、自分の力で勝ち取った義ということでしょう。勿論、律法から生じる自分の義を獲得することなど、誰にも出来ません。私たちは、神様の戒めを完璧に守り、神様に正しい人間と認めていただくことは出来ないのです。けれども、イエス様を信じる時に、神様は、ただそれだけで「あなたの罪は赦されている。もうあなたと私との関係はこじれていない。平和である。」と認めて下さるのです。

 この「キリストへの信仰による義」という言葉は、しばしば誤解されることがあります。これは、立派な信仰があれば神様が義と認めて下さる、と思われがちなのですが、本当はそうではありません。同じパウロが書いたローマの信徒への手紙では、こう言われています。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマの信徒への手紙3:22-24節)。私たちが義とされるのは、全く神様の恵みによるのであって、私たちの信仰が根拠ではないのです。私たち人間の方は、何も神様に差し出すものがありません。それはただただ無償による救いなのだ、とパウロは言うのです。

 信仰というのは、ただ神様の恵みをいただく手のようなものです。大きな手でもらう人もいるでしょうし、小さな手でもらう人もいるでしょう。しかし、この手が決め手ではありません。立派な大きな手があれば沢山もらえるわけではないのです。ただ手を差し出しさえすれば、神様が無償で与えて下さる、と言うのです。イエス様は、ある時、このように教えて下さいました。「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」と(マタイによる福音書13章31節)。からし種というのは、砂粒のように小さな小さな種です。また山が動くというのは、私たちには到底不可能に思えるようなことであっても、神に出来ないことはない、という一つの比喩です。私たちにからし種一粒ほどの信仰があるならば、それで十分なのだ、と主は言われます。どんなに小さな信仰であっても、私たちが「イエス様を信じます。どうか、この私の罪を赦して下さい!」と手を差し出すならば、小さな手にも、大きな手にも、少々汚れた手にも、きれいな手にも、神様はこの義を私たちに与えて下さる、と言うのです。これは本当に嬉しいことですね。パウロはここで、「私はこの義を既に神様からいただいているので、この義に励まされながら、誇るべきものを打ち捨てて、何とかしてキリストを得たい、復活に達したい、と語っているのです。

 この義は、神様の一方的な恵みによって私たちにも差し出されています。ですから、私たちがまずなすべきことは、「頑張って清く、正しい人間になろう!」と、背伸びすることではありません。そうではなくて、もう見栄やプライドは全部かなぐり捨てて、へりくだって、自分の内側にある罪を、しっかりと見据えることから始めなければならないと思います。

 そもそも信仰とは何でしょうか。信仰とは自分自身を信じることではありません。そうではなくて、自分自身の罪の大きさを知り、その罪の縄目から私たちを救い出して下さる神様の力を信じる、ということでしょう。もっと単純に言うならば、信仰とは神様にすがりつくことです。神様にすがりつき、神様とつながってさえいれば、たとえそれが、からし種一粒ほどの信仰であっても、大丈夫!全ての恵みは神様を通して私たちに伝わってきます。神様につながってさえいれば、神様が弱い私たちを少しずつ造り変えて下さるのです。

 よちよち歩きの幼い子供はお母さんに手をつないでもらって歩きます。その時に、手をしっかりと握りしめているのはお母さんの方であって、子供ではありません。お母さんが子供の手をしっかりと握っていなければ、いくら子供がお母さんの手を握りしめていたとしても、その手はすぐに離れてしまい、たちまち子供は転んでしまうでしょう。よちよち歩きの幼い子供には、お母さんの手にずっとしがみついているだけの力がないからです。私たちも同じです。私たちも自分の力で神様につながっていようとしても、私たちの内にはそんな力はありません。神様の方が私たちをしっかりと握りしめて下さらなければ、私たちは神様につながることなど出来ないのです。自分の内側を見るならば、人を赦せない自分があり、自己正当化する自分があり、自分の力を誇る傲慢さがあり、もう絶望的な思いがいたします。当たり前です。私たちの内側には、神様につながる力など、もともと無いのですから。でも大丈夫です!自分の無力さを知り、罪深さを知って、そんな罪深い私を救うためにこそ御子の十字架があったというあの驚くべき恵みの世界を知り、そこで生き始めたいと私たちが神様にすがりつくならば、たとえそのすがりつく私たちの手の力が弱くても、それが、たとえからし種一粒の信仰であったとしても、神様が私たちの手をしっかりと握りしめて下さるはずです。そのことを信じ、ただひたすら主の十字架の恵みにすがりつく信仰を大切にしていきたいと思います。

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