日曜朝の礼拝「窮乏の時の奉仕者」

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窮乏の時の奉仕者

日付
説教
吉田謙 牧師
25 ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、26 しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。・・・ 29 だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。
フィリピの信徒への手紙 2章25節-30節

 4章18節を見ると、このエパフロディトという人は、フィリピ教会の贈り物を牢獄のパウロのもとに届けた人であったことが分かります。当時の牢獄の食事は、大変粗末なものでした。ですから、牢獄に入れられた人は、差し入れが無ければ生き延びることが出来なかったのです。フィリピの教会の人々は、パウロが牢獄に入れられた知らせを聞き、早速、この差し入れを届けるために、エパフロディトをパウロのもとに送ったのです。しかし彼の務めは、ただそれだけではありませんでした。パウロのもとに着いたならば、そのままそこにとどまり、牢獄の中で身動きがとれないパウロに代わって、その手足となり、キリストのために働くという任務も、どうやら彼には与えられていたようなのです。

ところが、今日の御言葉が語っているように、エパフロディトは、この牢獄で、死ぬかもしれないほどの重い病気にかかってしまったのです。幸いこの病気はやがて癒やされました。しかし、この病気を通して彼の心に一つの変化が起こりました。どうやら、このままパウロのもとで奉仕することが出来ないような事情ができたようなのです。26節のところに、このエパフロディトの心の変化が紹介されています。彼は、「しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。」ここで「会いたがっており」と訳されている言葉は、「慕う」とも訳せる言葉です。エパフロディトはフィリピの教会の人々を心から慕っていたのです。おそらく、病の苦しみの中で、幾度と無くフィリピに帰り、教会の人々に会いたいと思ったのではないでしょうか。しかし、エパフロディトが自らそのような選択をすることはありませんでした。むしろ彼は、自分が病気になった時に、教会の人々に知られないように、そのことをひたすら隠そうとしていたのです。エパフロディトは、フィリピ教会を代表し、パウロに対する教会の思いを一身に背負って、パウロのもとに派遣されたのです。彼がフィリピ教会のことを慕っていれば慕っているほど、教会の人々に心配をかけてはいけないと思ったのではないでしょうか。更には、教会の期待を裏切るようなことは出来ないという思いから、そう簡単には帰ることが出来なかったのだと思います。しかも、パウロを助ける教会の働きは、神様のための働きです。自分の都合で、そう簡単にやめてしまうわけにはいきません。エパフロディトは、病であることを教会にはひた隠しにし、なんとか体調を保ちながら、奉仕を続けようとしていたのです。ところが、何かのきっかけで、彼が病であることが教会に知れ渡ってしまいました。彼は、そのことをとても心苦しく思っていたのです。エパフロディトは、教会の人々に心配をかけたくないという思いを、必要以上に強く抱いていたようです。また、人々が病気になった自分のことをどのように思っているのかという不安もあったのかもしれません。そういうわけで、彼は、帰りたいという思いを主張することが出来ず、かと言って、そこでの奉仕にも専念することが出来ず、ただただ自分を責め続けることしか出来なかったのです。おそらく、この時、エパフロディトは重い心の病にかかっていたのではないかと思われます。

 このエパフロディトのことを、世間では「失敗した奉仕者」と言うのかもしれません。彼は与えられた役割を完全に果たすことが出来ず、フィリピ教会へと、すごすごと帰っていったのです。もし彼がもっと心の強い人であったなら、神様が憐れみ、病気を癒やして下さったのですから、これからは今まで以上に、もっと頑張って仕えていこう、と決心することも出来たでしょう。けれども、エパフロディトの心は、そんなに強くはなかったのです。彼は、不必要な仕方で自分自身を攻め、また不必要な仕方でフィリピ教会の人々の気持ちに気をまわしてしまいました。そのために彼は、とうとう奉仕することが出来なくなってしまったのです。

 今日の御言葉が心を打つのは、このような失敗をした奉仕者に対するパウロの深い思いやりです。パウロは、エパフロディトが教会から批判されることがないように、彼がどんなに大切な人間であり、どんなに一生懸命仕えた人であったかを、フィリピの教会に丁寧に書き送っているのです。パウロは、25節の続きのところで、このエパフロディトのことを「あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました。」と紹介しています。教会の人たちが期待していたことを、彼は全部成し遂げたわけではありません。けれども、彼が成し遂げたこともあったのです。確かに贈り物は届けられました。パウロが飢えに苦しみ、本当に差し入れを必要としている時に、贈り物はちゃんと届けられたのです。彼の働きによって、実際にパウロは助けられたのでした。そういう意味では、彼は立派な働きをしたのです。

 私たちは、人を評価する時に、出来なかったところを指摘し、何故頑張らなかったのか、と言ってしまうことがあります。けれども、パウロはそういう評価をしなかったのです。窮乏の時に、確かに差し入れを届けてくれた、と評価したのでした。こうしてパウロは、このエパフロディトを守りながら、29節のところで、次のように勧めました。これが今日の箇所でパウロが一番言いたかったことなのです。「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして彼のような人々を敬いなさい。」

 この「主に結ばれている者として」という言葉は、「イエス様と同じ気持ちになって」と言い換えることも出来るでしょう。イエス様がこのエパフロディトのことを大切に思っているように、あなたがたもイエス様に結ばれた者として、イエス様と同じ思いになり、このエパフロディトを歓迎してください、とパウロは言うのです。つまりパウロがここで語っているエパフロディトに対する温かい評価は、実はイエス様の評価であった、ということです。

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