日曜朝の礼拝「無駄でない人生」

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無駄でない人生

日付
説教
吉田謙 牧師
16 こうして、わたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることが出来るでしょう。
フィリピの信徒への手紙 2章16節-18節

 ここで言う「こうして」とは、具体的にはどういうことを意味しているのでしょうか。それは前回学んだ箇所を、もう一度思い起こすと、はっきりしてくると思います。パウロの開拓伝道によって信仰へと導かれたフィリピの教会の人々が、命の言葉をしっかりと握りしめ、キリストの救いの恵みの中で、今も生き生きと歩み続けていました。神様の救いの業は、もう既に始まっていて、終わりの時には必ずその救いは完成するに違いない、そのことの証しとして、フィリピの教会の人々が、このよこしまな曲がった時代にあっても、非のうちどころのない神の子として、星のように輝こうとしている、とパウロは言っていたのです。そして、このことを思う時に、パウロは自分の働きが無駄ではなかったと確信することが出来たのでした。

 けれども、フィリピの信徒への手紙を、この後、ずっと読み進めていくと、このフィリピの教会が、果たしてパウロが言うように、星のように輝こうとしている教会だったのだろうかと疑問に思ってしまいます。フィリピの教会は、決して完璧な教会ではありませんでした。色んな危険をはらんでいた教会だったのです。大きな迫害によって教会は揺れ動いていました。また教会内部にも争いがありました。そして、3章以下を読むと、この教会の中には間違った教えが忍び込もうとしていたことも分かります。フィリピの教会は、決して順風満帆な教会ではなくて、本当に厳しい状況の中に置かれていた教会だったのです。けれどもパウロは、教会のこういう危険な状況を知りながらも、心底、自分が走ったこと、労苦したことは無駄ではなかった、と告白できたのでした。ここにクリスチャンのあるべき姿が示されているのではないかと私は思います。

 私は、今までの自分の人生を振り返る時に、本当に危なっかしい人生だったなぁと、つくづく思わされます。あの時、ああいう出来事が起こっていなければ、きっと今の自分は無かっただろう、あの時、あの人のあの一言がなかったなら、今、自分はどうなっていただろうか、私にはそういう覚えが沢山あるのです。もし、私が聖書の神様を信じていなかったなら、自分の人生は、色んなことの偶然の上に成り立っている、本当に危なっかしい人生であって、一歩間違えると奈落の底に落ちてしまうかもしれない、そういう不安を、絶えず抱えていたのではないかと思います。けれども、幸いなことに私は聖書の神様を信じています。人間的には色んな弱さがあり、自分の力で切り抜けようとする時に、本当に危険が一杯で、不安なことばかりです。けれども神様は、そういう危険をも含めて、全てのことを支配しておられます。全ての出来事は、決して偶然の産物ではなくて、全ての事柄が神様の御手の中で起こっているのです。神様の知らないところで起こるような出来事は何一つない。そうであるならば、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。何を不安に思うことがあるでしょうか。全てを支配しておられる神様が、私たちの内側で既に働き始めておられます。たとえ色んな危険が迫ってきたとしても、そして実際に色んな苦難を経験したとしても、必ず私たちの救いは完成します。そして私たちの救いの完成のためには、私たちの人生の中で起りくる様々な出来事が、たとえ私たちにはその意味が分からず、無意味としか思えなかったとしても、どうしても必要なことなのです。クリスチャンの人生には、無駄なことは何一つありません。

 パウロは、そういう思いでフィリピの教会を見ていたのでした。人間的な思いで見るならば、もう危険が一杯であり、今にも空中分解してしまいそうな教会です。しかしパウロは、そういう危険な事柄に目を向けるのではなくて、このフィリピの教会に既に神様が働き始めておられることに注目したのでした。そして、そのことの故に、神様が全ての危険を乗り越えて、必ずその救いを達成して下さるに違いない、と確信することが出来たのです。そういうわけでパウロは、フィリピの教会にとって、そういう様々な危険を通り抜けることが、決して無駄ではなく、必要なことなのだ、と確信することが出来たのでした。同時に、今はそのことが、まだはっきりと現れているわけではないけれど、やがて終わりの日には、全てのことが明らかにされ、フィリピの教会を導いた自分の働きも、決して無駄ではなかった、と誇ることが出来るだろう、とパウロは言ったのです。

 新聞やテレビのニュースを見ると、本当に悲惨な出来事が毎日のように報道されています。特に、ウクライナやパレスチナで起こっている惨事を目の当たりにする時に、本当に人間の愚かさや罪深さ、弱さを嫌というほど思い知らされます。そういうニュースを見ながら、「自分には何にもできない」と本当に自分の無力さを痛感させられるのです。けれども、私たちは何も出来ないのではなくて、神様の大きなご計画の中で自分の働きを担っているのです。私たちは、今のこの現実を直視する時に、まるで世界全体が崩れていくかのような錯覚に陥るのかもしれません。けれども、本当はそうではないのです。神様は、今もご自分の民を集めながら、世界を救うご計画を着実に進めておられます。私という存在は、この世界にとって、決して無力な存在ではないのです。キリストに結ばれて、キリストの器として、神様の大きな大きなご計画に仕えているのです。そうであるならば、私たちはそれを誇りに思いながら、自分の持ち場で、諦めることなく、隣人に仕えることが出来るのではないでしょうか。

 私たちはキリストに結ばれて、キリストの体の一部分として、この神様のご計画の一端を担うのです。計画の全体は神様が責任をもって遂行して下さいますから、私たちはもう安心して、自分の持ち場で、自分に出来る精一杯のことをすればよいのです。それは誰かのために執り成し祈ることなのかもしれません。身近な人間に仕えることなのかもしれません。あるいは、隣りの人に一言声をかけることなのかもしれない。これらは本当に小さな小さな業です。そんなことをして、いったい何になるのかと言われるのかもしれない。けれども、私たちはそれによってキリストの器として神様の大きな大きなご計画の一端を担っているのです。何も恥じ入る必要はありません。誇りをもてばよいのです。

 パウロのように純粋に神様の喜びを自分の喜びとしたいと思います。兄弟姉妹の救いの達成を願いながら、たとえそれが小さな業であったとしても、胸を張って、その主の業に励みたいと思います。その時に、私たちの人生は決して無駄に終わることがなく、労苦したことも無駄ではなかったと、きっとキリストの日に誇ることが出来るでしょう。この希望の下に、今週も、それぞれの歩みを始めていきたいと思います。

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