日曜朝の礼拝「キリストのへりくだり」

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キリストのへりくだり

日付
説教
吉田謙 牧師
6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
フィリピの信徒への手紙 2章6節-11節

 今日の箇所には、イエス・キリストの物語が簡潔にまとめられています。そしてこの御言葉は、キリスト賛歌と呼ばれていて、おそらく初代教会が、毎週、礼拝の中で歌っていた讃美歌であっただろう、と多くの聖書学者たちが結論づけています。ではパウロは、何のためにこの讃美歌を引用したのでしょうか。それは、当時、皆が感謝を込めて歌っていたこのキリスト賛歌を引用することによって、このイエス・キリストこそ謙遜の模範なのだ、と指し示したかったからです。

 8節のところには、「キリストは、十字架の死に至るまで従順でした。」と言われています。私たちは、このキリストの謙遜を考える時に、それは神様の御心に従順に従う謙遜であったことを決して忘れてはなりません。では、神様の御心とはいったい何だったでしょうか。それは御子イエス・キリストを救い主とする、という御心です。イエス・キリストは、この神様の救いのご計画に従順に従い、十字架に至る道を歩み通されました。ご自分で、この人を救うためにへりくだろうと決意したのではなくて、神様が示されたご計画のままに、従順に従われたのです。私たちが学ぶべき謙遜が、ここに示されていると思います。神様のご計画に従い、神様が与えて下さる場所で、謙遜になるのです。あの場所に行ったなら謙遜になれるというのではなくて、私たちには神様が与えて下さった場所で謙遜になることが求められています。また私たちが謙遜に仕える相手も、私たち自身が選ぶのではありません。神様が選び、神様が与えて下さるのです。

 イエス様は、神様が選んで下さった私たちをご覧になりながら、こんな人々では困ります、とは言われませんでした。むしろ神様のご計画のままに、謙遜になって、私たちに仕えて下さったのです。私たちが示さなければならない謙遜も、そういう謙遜ではないかと思います。今、私たちは、この教会に、神様のご計画によって加えられています。そして、ここで現実に仕え合う一人一人を、神様から示されているのです。私たちは、この神様のご計画に従順に従うという仕方で、今、自分に与えられている一人一人に謙遜に仕えていきたいと思います。

パウロは、キリストの謙遜を教え、このキリストの謙遜に倣うようにという思いで、ここにキリストの賛歌を引用しました。この後、この手紙を読み進めていくと、この教会の中の婦人たちの中に、深刻な仲違いがあったことが明らかになります。その報告を聞いていたパウロは、このキリストの謙遜に倣い、「なにごとも利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と勧めたのです。フィリピの教会にとって、これはとても耳の痛い勧めではなかったかと思います。きっと悔い改めが迫られたことでしょう。とてもハードルの高い勧めを聞いて、「我々には、到底、実現不可能ではないか?!」と落ち込む人もいたかもしれません。けれども同時に彼らは、決して諦めることなく、この高い目標に向かって、前向きに歩み始めたのだと思います。そして、その原動力になったのが、他でもないこのキリストの賛歌だったのです。

 このキリストの賛歌は、キリストの生涯を簡潔に言い表したものでした。パウロは特にキリストの謙遜ということを教えるために、このキリストの賛歌を用いました。しかし、もともとこの讃美歌は、キリストの十字架の救いの恵みを歌う讃美歌だったのです。フィリピの教会の人々は、この讃美歌を歌いながら、繰り返しキリストの十字架の恵みを思い起こし、救われた喜びを噛みしめていたのだと思います。そして「もう一度、やり直してみよう!新しく生きてみよう!」と決意を新たにしたのでした。ですから、礼拝の度に歌っていたこの讃美歌の言葉を聞いた時に、彼らは、キリストの謙遜を心に刻むと同時に、やはりキリストの十字架の恵みを思い起こしていたのではないでしょうか。

 そもそもイエス・キリストの十字架の恵みとは、いったい何でしょうか。それは私の今までの全ての失敗、全ての罪が赦されていた、この驚くべき恵みです。またイエス・キリストを信じ続けて、私たちが繰り返し味わう恵みも、悔いてはまた犯す この私の罪を、イエス・キリストはその十字架の血潮によって全部洗い流して下さった、全部赦して下さった、この恵みです。私たちは、この十字架の恵みに、打ち震えるほどに感動し、それぞれに信仰の歩みを始めたのではないでしょうか。そしてそれは、その時限りの感動ではなくて、今も日々、新たにされている感動なのです。フィリピの教会の人々も、毎週、このキリストの賛歌を歌いながら、こういう感動を、繰り返し味わっていたのだと思います。

 私たちも、このキリストの十字架の恵みを土台としながら、諦めることなく、この謙遜の道を歩んでいきたいと思います。家庭や職場や学校、地域社会、そして教会が、私たちに与えられた仕えるべき場所です。そこにいる一人一人が、私たちに与えられた仕えるべき人々なのです。こんな人では仕えることが出来ません、と簡単に投げ出してしまうのではなくて、何度失敗したとしても、キリストの十字架の恵みによって赦していただきながら、諦めることなく繰り返しチャレンジしていきたいと思います。時には傷つくことがあるかもしれません。逆に相手を傷つけてしまうこともあるかもしれない。私たちには、それぞれに欠けがあり、弱さがあり、限界があります。何度振り払っても、すぐに利己心や虚栄心が頭をもたげてくるのです。ですから、どんなに頑張ってみても、その人の気持ちをすべて理解し、寄り添い、どんな時でも謙遜に仕えることなど私たちには、到底、出来ません。けれども、そこで諦めてしまったならば、その関係はそこで終わってしまうでしょう。愛の反対は無関心と言われます。決して無関心に逃げ込むのではなくて、何度失敗してもイエス様の十字架によって赦していただきながら、諦めることなく、謙遜に仕えることに挑戦し続けたいと思います。そういう失敗の繰り返しの中で、きっと主は私たちを少しずつイエス様に似る者へと成長させて下さるでしょう。

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