日曜朝の礼拝「生きるとはキリスト」

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生きるとはキリスト

日付
説教
吉田謙 牧師
21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。・・・ 23 一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
フィリピの信徒への手紙 1章21節-26節

 「生きるとはキリストである!」この御言葉には、主に三つの意味がある、と言われます。まず一つ目は、「私たちの生きる力はキリストからやってくる。キリストの力によって私たちは支えられているし、キリストの恵みによって私たちは生かされている!」という意味です。また二つ目の意味は、「私たちの日々の生活を導いておられるのは、私たちの心の中に住んでおられるキリストである!」ということです。また三つ目の意味は、私たちが「キリストのために生きる!」ということです。ここには、そういうことが詳しく記されていませんが、他のパウロの手紙を読むと、ここでパウロが語ろうとしていることが分かってきます。

 パウロはこういう生き方の中で、キリストと共に生きる喜びを深く味わっていたのでした。このことがどんなに大きな喜びであったのかが21節の後半の言葉からもよく分かります。「死ぬことは利益なのです。」何故パウロにとって死ぬことは利益なのでしょうか。そのことの説明が23節後半に述べられています。「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」(23節後半)

 「死ぬことは利益なのです」というのは、死んだら嫌なことが全部忘れられるとか、生きているのが辛いので死んだ方がましだ、ということでは決してありません。パウロにとっては、キリストと深く結ばれていることが何よりも嬉しかったのです。要するに、ずっとキリストと共にいたいという思いから、「死ぬことは利益なのです!」と言うことが出来たのでした。きっとパウロは、キリストと共に生きていることの喜びを、毎日毎日味わっていたのでしょう。だからこそ、このキリストと、もっと深く結ばれることになる死の時も、また利益なのだ、と語ることが出来たのです。パウロのように「死ぬことは利益です!」と語ることが出来たなら、私たちの人生は、どんなに平安になることでしょう。けれども、これはパウロだけが到達し得た信仰の極意ではありません。これはクリスチャンであるならば、誰もが手にすることの出来る平安なのです。では、どうすればそれを手に入れることが出来るのでしょうか。その秘訣とは、いったい何でしょうか。その秘訣とは、今、この時にキリストと深く結びつくことです。今、キリストによって生かされている。今、私の内側でキリストが生き生きと働いておられる。今、キリストのために生きている。このキリストと共に歩む今という時が、良ければ良いほど、このキリストともっと深く結びつくことになる死の時についても、確かな希望が生まれてくるのです。そしてクリスチャンであるならば、誰もが、この思いを持つことが出来るように、主によって少しずつ造り変えられていくのです。パウロは、この世にいる間に、キリストと深く結びつくことが出来ました。ですから、この世を去り、キリストと共にいることが、本当に素晴らしいことであることが分かってきたのです。私たちも、今という時にキリストと共に生きることの喜びを豊かに味わい知っていくならば、「死ぬことは利益です!」と躊躇なく言えるようになるのではないでしょうか。

 確かに、今という時にキリストと共に生きることの喜びを生き生きと味わうことが出来たなら、「死ぬことは利益です!」と言えるようになるのかもしれません。しかしクリスチャンであれば、皆が皆、そういう仕方で平安を見出すことが出来るのかと言うと、決してそうではないと私は思います。信仰の成長のあり方も、またその成長段階も、皆、一人一人違います。ですから、まだ成長途上にあって、そういう平安を味わう前に死んでいくクリスチャンも、中には、いるのではないかと思います。では、そういうクリスチャンは、いったいどうなるのでしょうか。

 私は以前、死に直面したことがあります。私がまだ会社勤めをしていた時のことです。クレーム処理のために、現場に車で向かっている最中に、急に動悸が激しくなり、あわてて車を脇に寄せて、しばらく休んでいました。しかし動悸はますます激しくなり、意識も朦朧となっていきました。そんな中で私が思ったことは、自分はもうこのまま死んでしまうかもしれない、死ぬのは怖い、このままでは死ねない、ということでした。この時の私には、死ぬことが利益だという思いなど、一欠片もありませんでした。毎日、仕事に追われ、疲れ切っていましたから、日曜日の礼拝に出席しても、座ると同時に眠りこけてしまうという有り様でした。この時の私は、信仰生活に喜びを見出すことが出来ずにいたのです。そういう状況の中で死に直面したものですから、とても平安でいることなど出来ません。思いっきり藻掻いてしまいました。しかし、今から思えば、あの時たとえ私が死んでいたとしても、天国にいけなかったのかと言うと、決してそうではなかったと思います。死ぬ時に、たとえ藻掻き苦しんで死んでいったとしても、信仰者にとっては、死はやはり利益なのです。本人がどう思っていようが、まわりの人たちがどう受けとめようが、与えられる恵みに変わりはありません。私たちにも、パウロと全く同じ恵みが与えられるのです。

 信仰が強くても弱くても、イエス様を信じているならば、皆、天国に入れられ、イエス様との深い交わりの中に入れられます。神様が一端、救いの中に選び取った者は、その信仰の有り様がどうであろうと、救い出して下さるのです。これがイエス様の約束です。このことを私たちがしっかりと受けとめることが出来たなら、どんな時でも平安に生きることが出来るでしょう。かつての私には、このような信仰がなかったために、死に直面した時にうろたえてしまいました。しかし、たとえ死ぬ時にジタバタし、平安でいることが出来なかったとしても、からし種一粒ほどの信仰があるならば大丈夫、イエス様を信じる思いが心の片隅に少しでもあるならば、私たちは必ず救われます。しかし、たとえ最終的には救われるにしても、死ぬ時にはやはりジタバタしたくないというのが、私たちの本音ではないでしょうか。そのためには、やはり今という時に私たちがキリストと共にいることの喜びを生き生きと味わうことが肝心です。今という時に、生きるとはキリストであることを本当に味わい知っていく時に、きっと私たちは死ぬことは利益なのだ、と心の底から言えるようになるでしょう。

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