日曜朝の礼拝「不変の喜び」

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不変の喜び

日付
説教
吉田謙 牧師
18 だが、それが何であろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。
フィリピの信徒への手紙 1章15節-20節

 今日の箇所には、大変に心痛む報告が記されています。パウロが牢獄に入ったことによって、より一層熱心に伝道し始めた人々がいました。そういう人々の中に、愛の動機からではなくて、むしろ妬みや争いの念から、牢獄のパウロをより一層苦しめるために伝道している人々がいた、と言うのです。しかしパウロは、「それが何であろう!」と言いました。これは、「そんなことは問題ではない!」という強い調子の言葉です。牢獄の中にいるパウロにとって一番の救いは、キリストの福音がより一層宣べ伝えられていくことでした。ですから、パウロは人々の悪意には傷つくことなく、かえって万事を益として下さる神様の不思議な御手を信じ、このことを心から喜ぶことが出来たのです。

 確かにパウロは、この腹立たしい出来事を、そのようにして前向きに受けとめることが出来ました。しかし、教会の中に妬みや争いがありながら、本当に福音は前進するのでしょうか。普通は、妬みや争いがあれば、福音の前進には決定的なマイナスになると思います。ここで私たちが注意しなければならないことは、パウロは、妬みや争いの念からの宣教が自動的に福音の前進につながるとは言っていない、ということです。そうではなくて、ここでパウロは、そうなる根拠をちゃんと示しているのです。19節。「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。」

 愛のない悪意からの福音宣教さえも用いられるとするならば、それは祈りとイエス・キリストの御霊の助けによるほかはない、と言われているのです。愛のない悪意からの福音宣教が、自動的に福音の前進につながるわけではありません。そうではなくて、教会が真剣に祈るならば、祈りと共に働かれるイエス・キリストの霊、即ち聖霊が、この悲しい現実を通しても福音を前進させて下さる、と言うのです。これがパウロの確固たる確信でした。

 パウロが、たとえ自分への妬みをもってした伝道であっても、変わらずに喜ぶことが出来たのは、教会の信仰者たちが自分のために熱心に祈ってくれていることを知っていたからです。そして神様がその祈りを必ず聞き遂げて、聖霊が不思議な仕方で働いて下さることをパウロは確信していたからであります。

 人間の業は、どんなにその人の能力が優れていたとしても、あるいは、それが綿密に練り上げられた計画に従って押し進められてきたことであったとしても、最終的には、神様に委ねる他はない、という一面をもっています。特に、教会の業、信仰の働きは、そうではないでしょうか。だからこそパウロは、祈りを聞いて下さる神様に自ら真剣に祈りつつ、伝道者としての働きに熱心に励むと共に、また教会の人々に向かっても、「私のために神様に祈って欲しい!」と真剣に願ったのです。そしてパウロは、自分のために祈ってもらえていることに、特別な喜びと慰めを見出すことが出来たのでした。

 パウロはしばしば教会の人々に向かって、「私のために祈ってほしい」と願いました。パウロは自らも熱心に祈り、また教会に対しても、「私のために祈ってください!」と切に願い求めていたのです。ここに、私たちが学ぶべき信仰の姿勢があります。私たちが自分自身のことを振り返ってみる時に、パウロほど大胆に、あるいはパウロほど素直に、信仰の友に向かって、「私のために祈ってください!」と願っているでしょうか。あまり、そういうことは口にしたことがない、という人がおそらく多いのではないかと思います。「私のために祈ってください!」と願うことは何か照れくさくて、また甘えているようで口にしにくい、ということがあるのかもしれません。自分以外の他の人のためなら、あの人のために祈ってください、この人のことを覚えてください、と素直に言えるのに、いざ自分のこととなると、なかなかそのことが言えない、そういうことが、私たちにはあるのではないかと思います。しかし、それは単に照れくさいとか、甘えているように思えるからなのでしょうか。もしかすると、まだ私たちは、自分の無力さを正しくとらえ切れておらず、自分でまだ何とか出来ると思っているので、兄弟姉妹に、「私のために祈ってください!」と願うことを、あえてしていないのかもしれません。しかし、自分の無力さをはっきりと自覚する時に、人は祈らざるを得なくなります。徹底的に打ち砕かれた時に、私たちは、「私のためにどうか祈ってください!」と願わざるを得ないのです。それは、決して甘えではありません。神様によらなければ、人の命も、人の救いも、完成に至ることはないことを知っているからこそ、私たちは最後の拠り所として神様に祈るのです。自分も祈るし、また信仰の友にも祈って欲しいと願うのだと思います。ですから、何か困難な状況に陥った時には、恥ずかしがらずに、また遠慮せずに、「私のために祈ってください!」と声を上げるようにしましょう。勿論、全ての事情をさらけ出すことは出来ないのかもしれません。そういう時には、言える範囲のことだけで結構です。もしそれも出来ないのなら、牧師にだけは、是非、願い求めていただきたいと思います。「私のためにどうか祈ってください!」と。

 「私のために祈ってください!」と言われたならば、私たちは喜んで祈るのではないでしょうか。私たちは、ある人のことを祈りに覚えることによって、その人の抱えもっている戦いに連なることが出来ます。私たちには、何も手助けすることが出来ないのかもしれません。具体的な援助は何も差し出すことが出来ないのかもしれない。けれども、その人のことを祈りに覚えることによって、私たちは、その人の課題を共同の課題として、共に担い合うことが出来るのです。そういう祈りの交わりの中で、私たちもパウロのように、互いに励まし合い、支え合いながら、少しずつキリストによる救いの確信を互いに深め合っていくことが出来るのではないでしょうか。

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