日曜朝の礼拝「キリストの熱愛」

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キリストの熱愛

日付
説教
吉田謙 牧師
7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。
フィリピの信徒への手紙 1章7節-8節

 ここでパウロは、「キリスト・イエスの愛の心であなたがたのことを思っている!」と言いました。この「愛の心」と訳されている言葉は、原文では『内蔵』とか『はらわた』という意味の言葉が使われています。日本語にも、内蔵の腸がちぎれると書いて「断腸の思い」という言葉があります。どちらかと言うと、これはそれに近い言葉と言えるでしょう。要するに、口先だけでは無く、また胸の内だけで考えているようなものでもなくて、腹の底から突き上げてくるような、はらわたがちぎれんばかりの激しい愛という意味です。以前の口語訳聖書では、これを「熱愛」と翻訳していました。最近、発行された聖書協会共同訳聖書では、これを「深い憐れみの心」と翻訳しています。私は、「愛の心」とか「深い憐れみの心」といった整った翻訳よりも、もっと動きのある「熱愛」と翻訳した口語訳聖書の方が、本来の意味に近いのではないかと思います。本来、「熱愛」と翻訳したくなるような言葉が、ここには使われているのです。「キリスト・イエスの熱愛によって私はあなた方を愛している。そのことをどうか分かってほしい!」とパウロは言っているのです。このキリスト・イエスの熱愛で愛するということが、パウロが牢獄の中でも喜ぶことが出来た根拠でした。そのことは、他の愛情のことを考えてみると、よく分かることではないかと思います。普通の愛で愛し合っていたならば、おそらくこういう思いにはならなかったでしょう。

 では、このイエス・キリストの愛とは、いったいどのような愛なのでしょうか。それは、私たちの救いのために、十字架に架かって下さるような凄まじいまでの愛です。私たちが救いの恵みにあずかり、最後には永遠の命をいただき、天国に入ることが出来るようにと、イエス・キリストは私たちの罪を全部担(にな)い、私たちの身代わりとなって、本来、私たちに向けられるはずの神様の怒りと呪いを全部その身に引き受けて、あの十字架の上で、身代わりの死を遂げて下さいました。

 私たちは、どちらかと言うと、目の前の幸福ばかりを追い求めてしまうのではないかと思います。けれどもイエス・キリストの愛は、そういう目先の幸福ではなくて、もっと根(こん)元(げん)的(てき)な幸福を私たちに差し出して下さいます。では、根(こん)元(げん)的(てき)な幸福とは、いったい何でしょうか。それは、まず私たちの罪が全て赦される、ということです。人に言えないような様々な過ちや様々な汚(けが)れた思い、それら全ての罪が赦されるのです。

 もうあれこれと言い訳をし、おどおどしながら生きる必要はありません。全てのことが赦されて、晴れ晴れと生きることが出来るのです。そして、罪赦された者として神様に愛され、神様の愛を味わいながら、日々を生きることができる。これが根(こん)元(げん)的(てき)な幸せです。そして、この神様の愛に包まれながら私たちが死んでいく時に、神様は私たちを天国へと導き、そこで永遠に生かし続けて下さいます。この根(こん)元(げん)的(てき)な幸せのために、イエス・キリストはご自分の体も魂も、全てを投げ出して、私たちの罪の償いを成し遂げて下さったのです。パウロは、この凄まじいまでの愛を、キリストの熱愛と表現しました。キリストは、今も同じ熱愛で、私たちを愛し抜いて下さいます。私たちが罪赦され、神様の愛に包まれて、ついには永遠の命に入ることが出来るように、私たちのことを本当に凄まじいまでの熱愛で愛し、最後の最後まで責任をもって守り導いて下さるのです。

パウロは、キリストと同じ種類の愛、即ちキリストの熱愛で、フィリピの教会を愛することが出来ました。私たちは、なかなかそのような愛で、人を愛することが出来ません。しかし、これはパウロが偉かったから出来たことではないのです。きっとパウロも、自分自身の愛の限界をよく知っていたことでしょう。もしかすると、様々な困難が降りかかってくる中で、パウロの愛も揺れ動くことがあったのかもしれません。けれども、そんなパウロが、フィリピの教会の人々の中に、キリストの愛を見いだしたのです。キリストがフィリピの教会の人々のことをどんなに愛し、深い憐れみをもって取り扱っておられるのかを、パウロはつぶさに知ることが出来たのでした。フィリピの教会の人々が、厳しい困難に遭遇する中で、決してひるむことなく、むしろそれに勇敢に立ち向かいながら、なお福音にしっかりと踏みとどまっていることをパウロは知らされて、そこにキリストの深い憐れみと愛を見いだし、心が激しく揺さぶられたのです。パウロは、このことに励まされて、フィリピの教会の人々を、イエス・キリストと同じ種類の愛で愛することが出来たのでした。

 パウロもフィリピの教会の人々も、キリストの熱愛と言えるような完全な愛をもっていたわけではありません。けれども、それぞれの歩みの中に、キリストの深い憐れみを見いだし、そのキリストの愛に促されて、パウロもフィリピの教会の人々も、不完全ではありながら、キリストと同じ種類の愛で愛し合うことが出来たのでした。そしてその愛は、キリストを愛する者同士の交わりの中で、お互いに確かめ合い、励まし合いながら、少しずつ養われていったのです。

 私たち自身の愛は、キリストの愛にはまだまだ程遠く、まことに自己中心的なものでしかないでしょう。けれども、パウロがフィリピの教会の人々との交わりを通して味わったように、私たちも同じキリストの恵みに預かっている兄弟姉妹方との交わりを通して、キリストの深い愛を味わい知ることが出来ます。同じキリストの愛によって生かされている者同士として、兄弟姉妹方の歩みの中に、キリストの深い憐れみと愛を見いだすことが出来る時に、「あの人の歩みの中で深い憐れみの御業を表されたお方は、私の歩みをも支えて下さるに違いない!」と、私たち自身も大いに励まされ、慰められるのです。そういう意味で、キリストにある兄弟姉妹方との交わりは、とても大切なのです。

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