日曜朝の礼拝「執り成しの祈り」

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執り成しの祈り

日付
説教
吉田謙 牧師
3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。・・・6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
フィリピの信徒への手紙 1章3節-6節

 4節の後半には、『喜びをもって祈っています』とあります。パウロがフィリピの教会の人々のために執り成しの祈りをするのは、フィリピの教会の人々の側に、何らかの不足や問題があったからです。それも、神様の助けなしには、解決の可能性がないような深刻な問題があったからでした。このことは、それ自体、決して喜ばしいことではありません。にもかかわらず、パウロは喜びをもって祈っています。この不合理とも思える喜びは、いったいどこから来るのでしょうか。この喜びの源を、もっともよく言い表しているのが、6節の御言葉ではないかと思います。6節。『あなたがたの中で良い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。』

 この箇所を理解する上で鍵になる御言葉は、『良い業』です。ここでの『良い業』とは、『キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる』という関連の中で考えなければなりません。『キリスト・イエスの日』とはキリストの再臨の日、この世の終わりの日、神の国の完成の日のことです。ですから、ここでの『良い業』とは、世の終わりに神様が完成して下さる業、即ち『神様の救いの御業』のことなのです。これらのことを踏まえて6節を言い換えると、このようになります。『神様の救いの御業がフィリピの教会の人々の中でも始まった。その救いの御業を始められた神様は、終わりの日にその救いの御業を完成してくださると私は確信している。』

 この6節でもう一つ注目すべきことは、救いの確信が、フィリピの教会の人々の信仰生活に基づいて述べられているのではなくて、『良い業』を既に始められた神様に基づいて述べられている、という点です。信仰者の将来を決定づけるのは、信仰者の側の信仰の有り様によるのではなくて、既に『良い業』、即ち『救いの御業』を始められた神様の側の真実さによるのです。もし信仰者の将来を決定づけるのが、信仰者の有り様によるのであれば、これほど不確かなことはありません。なぜならば、私たちの心は常に揺れ動いているからです。「主よ。感謝します!」と熱狂的に信じている時があるかと思えば、「主よ。どうしてですか?!」とつぶやいてしまうことも度々ある。そのような私たちの信仰の有り様が、私たちの将来を決定づけるのであれば、私たちは到底救いの確信を持つことなど出来ません。けれどもパウロは、ここで、私たちの救いの根拠は、私たちの内に救いの御業を始められた神様の側の真実さによるのだ、と言っています。神様は、ご自分で始められたことを、決して中途半端な状態で放棄なさるようなお方ではありません。これが私たちが信じている真実なる神様のあり方なのです。神様は造り主であると共に、歴史の主でもあります。そのお方が一端一人の人間において、良い業、救いの御業を始められたからには、その予定を途中で変更し、救いの完成を諦めてしまわれるようなことは決してありません。それが変わることのない神様の真実です。この神様の真実こそが、私たちの救いの根拠なのです。

 医師であり、神学者であったアルベルト・シュバイツァー博士がこういう言葉を残しています。「私は現実の認識においては悲観的であるが、希望においては楽観的である。」

 現実を見る時に、悲観的にならざるを得ないようなことばかりが起こります。しかし、どんなに厳しい現実があり、人間的に見たならば、もう駄目ではないかと思うような状況にあったとしても、神様が関わってくださるならば、それは決して途中で放棄されることはない、そういう意味で、希望においては楽観的であってよいのだ、とシュバイツァー博士は言うのです。ここに私たちクリスチャンが希望をもって生きていくための秘訣が示されているのではないかと私は思います。

 一人一人には、様々な試練があり、成長しなければならない多くの欠けがあります。しかし、福音にあずかってさえいれば、もう大丈夫なのです。その人を主は最後まで守り導いて下さいます。最後には欠点が何一つない素晴らしい魂として、神様の前に立たせて下さるのです。

 執り成しの祈りの苦しさを、多くの方々が味わっています。愛する者の健康や進路や人間関係や様々なことで心配は尽きることがありません。しかし、決定的なことは、そのようなことではないのです。決定的なことは、その人が福音にあずかっているかどうか、神様の救いの恵みが始まっているかどうかです。もし、そのような決定的なことが既に始まっているのであれば、何も心配することはありません。神様が必ずやその救いを完成させて下さいますから、私たちは安心して、また喜びの内に、愛する者のために執り成しの祈りを捧げ続ければよいのです。

 教会の現実がどんなに暗くても、私たちの愛する人の信仰の状況が今いかに絶望的なものであったとしても、私たちはそこから結論を引き出す必要はありません。そのような現実以前に、神様が救いの御業をこの地において、この教会において、そして、私たちの愛する人において、始められました。そうであるならば、私たちは何を心配する必要があるでしょうか。必ずや神様が、その救いの御業を完成へと導いて下さるに違いありません。神様は真実なお方です。約束なさったことは必ず果たして下さいます。この希望から私たちは事柄を始めていきたいと思います。

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