日曜朝の礼拝「十字架の救い主」

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十字架の救い主

日付
説教
吉田謙 牧師
31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」
マルコによる福音書 15章21節-32節

 今日の箇所の後半には、十字架の苦しみを味わっておられるイエス様に向かって、人々が様々な罵りの言葉を投げかけた様子が伝えられています。今日は、特に祭司長や律法学者たちがイエス様をあざ笑った言葉に注目したいと思います。彼らは、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(31節、32節)と言いました。彼らは、イエス様が多くの病人を癒し、悪霊にとりつかれていた人から悪霊を追い出し、死んだ人を生き返らせることまでして、苦しみや悲しみの中にある人々を救ったことをとりあげています。そのように人々を救う力のある神からのメシア、つまり救い主ならば、自分をこの十字架の苦しみと死から救ったらよいではないか、と言うのです。それができないということは、やはりお前は神からのメシアでも、選ばれた者でもないということだ、お前が偽メシアであることが、これでよく分かった、と彼らは言うのです。今日の箇所には、そのことを通りかかった人たちも、また犯罪人の一人も、同じような言葉でイエス様を罵った、と言われています。十字架につけられ、苦しみつつ死のうとしているイエス様は、そういう嘲りを受けられたのでした。

 このような嘲りは、既にイエス様が活動する最初から、イエス様に向けられていたものでした。これは、イエス様が公の活動を始めるに当たって、荒野でサタンから誘惑を受けた時の言葉とそっくりです。イエス様は公の活動を始める前に、四十日間の断食をなさいました。その空腹の絶頂にある時に、サタンは「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうか」と誘惑したのです。イエス様は神の子です。しかし、同時に全くの人間でもありました。神の子だから全く痛みも空腹も感じないというお方では決してありません。私たちと同じように悲しみ、苦しみ、そして様々な誘惑と戦われたのです。ただ私たちと違っていたのは、イエス様には何でも出きる力があった、ということでしょう。ですから、サタンが誘惑したように、石ころをパンに変えることぐらい、イエス様にとっては朝飯前のことでした。それだけにこのサタンの誘惑は、私たちが想像する以上に、イエス様にとっては厳しいものであった、ということです。しかしイエス様は、このサタンの問いに対して「『人はパンだけで生きるものではない』と聖書には書いてある」と、キッパリと答えられました。イエス様は、奇跡的な神の子の力をもってこのサタンの誘惑に打ち勝たれたのではなくて、私たちにも出来る仕方で、即ち、御言葉をもってこのサタンの誘惑に打ち勝たれたのです。

 イエス様の救い主としての歩みは、最初から、このサタンの論理を否定する形で進められました。そして、この姿勢は、その後もずっと変わらずに貫かれたのです。イエス様は、人を救うためには数々の奇跡をなさいました。しかし、自分を救うためには一切奇跡をなさらなかったのです。もしこの時、イエス様が神の子だから、王様だから、救い主だからと言って、十字架から降りてきていたならば、どうなっていたでしょうか。それは十字架を無にするばかりでなく、イエス様の一生をも無にすることになっていたでしょう。

 では、イエス様を十字架から降ろさせなかったものとは、いったい何だったのでしょうか。イエス様の手足を貫いていた太い釘の力だったでしょうか。決してそうではありません。イエス様の力からするならば、十字架から降りることなど、石をパンに変えることよりも、もっと簡単なことだったに違いありません。では、何故それをしなかったのでしょうか。それは、「この罪深い人間を救いたい!」「あなたを救いたい!」「救わずにおくものか!」というイエス様の救い主としての使命感、愛の力が、そうさせたのではないかと思います。もしイエス様が、この時、神の子という身分に物を言わせて、ノコノコと十字架から下りてきたならば、果たして私たちの救いは実現していたでしょうか。この世の中に、イエス様以外に、いったい誰が私たちの罪を償い、神の怒りや呪いを代わって受けてくれたでしょうか。人々の常識からするならば、自分を救わない救い主など考えられなかったのかもしれません。「おめおめと十字架の上で惨めな死を遂げるような者が、どうして救い主と言えようか?!」「誰がそんな男に従うというのか?!」これが世の常識でありましょう。けれども、この自分を救うことなく、十字架にかけられたお方こそ、私たちの救い主、まことの王なのです。

 「人を救うためには救うことのできる力が必要である。自分が滅びてしまうようでは、人を救うことなどできない。王であるというからには、人を従わせるだけの権力が必要ではないか。捕えられ、裁かれ、死刑に処せられてしまうようでは、到底、王とは言えない!」これが世の常識です。

 パウロもこう言っています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(コリントの信徒への手紙一1:22-24)。十字架のキリストは、ユダヤ人にとってはつまずきでしかない。異邦人にとっては愚かでしかない。その通りでしょう。しかし、この十字架のキリスト以外に人間の救いはありません。他人を救ったけれど、自分自身を救わなかったイエス・キリスト。自分自身の救いを放棄し、罪人である私たちの罪を全部担い、十字架の上で神の怒りと呪いを一身に受けて下さったイエス・キリスト。このお方以外に私たちの救いはないのです。

 たとえ世界中の大半の人々が、「愚かだ、つまずきだ」と貶そうと、私たちはこのお方こそ真の救い主、真の王なのだと信じ、喜んで従っていくのです。

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