日曜朝の礼拝「ゲツセマネの祈り」

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ゲツセマネの祈り

日付
説教
吉田謙 牧師
36 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」・・・ 37 「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
マルコによる福音書 14章32節-42節

 イエス様は、壮絶な苦しみの中で、素晴らしい祈りを捧げられました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)と。

 よく考えてみると、私たちの祈りは、ただ神様に自分の思いや願いを投げかけているだけ、ということが多いのではないかと思います。決して、そういう祈りをしてはいけない、ということではありません。いや、むしろ自分の願いを神様に向かって大胆に祈ることも、私たちの信仰にとって、とても重要なことではないかと思います。けれども、そういう祈りは、ともすれば独り言に終わってしまうことがあります。独り言というのは、対話が成り立っていないということです。祈りが神様との対話となるためには、今日のイエス様の祈り、即ち「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように!」という祈りがどうしても必要なのです。けれども、弱い私たちが、いきなりこの祈りを捧げることが出来るのかと言うと、そう簡単なことではありません。神様の御心、神様のご意志を本当に祈り求めていこうとする時に、しばしばそれが自分の思いや願いとは違うことに気づかされます。そうすると、自然と心がざわつき、時には怒りや嘆きで心が一杯になることがあるのです。それは仕方のないことではないかと思います。いきなり、「御心ならば!」と平安に祈れるわけではありません。もし、そういう怒りや嘆きを覚える時に、こんな自分は不信仰なのだと思い込み、そういう感情を封じ込めてしまったならば、いったいどうなるでしょうか。きっとその人の信仰は萎えてしまい、心のざわつきはいよいよ増し加わっていくことでしょう。そうではなくて、怒りや嘆きが生じたならば、それを押し殺すのではなくて、正直に神様に打ち明けたら良いのです。そういう祈りの葛藤の中で、私たちの心は少しずつ整えられていくのではないかと思います。そして、やがて私たちも「やはり、これは自分のためであり、自分のやりたいことであって、神様の御心ではなかった。主は自分の計画を脇において、主に従うことを求めておられる!」と素直に受け止めることが出来るようにされて、少しずつ「御心ならば」と祈る者へと造り替えられていくのです。

今日の箇所で、もう一つ覚えたいのは、イエス様が、このゲツセマネで示された本当に深い慈しみです。最初、イエス様が弟子たちをゲツセマネの園に伴われたのは、弟子たちと一緒に祈りの戦いをなさりたかったからでしょう。けれども、弟子たちはそのイエス様の期待に応えることが出来ませんでした。彼らは事もあろうに、この一番大事な時に眠りこけてしまったのです。その時にイエス様は、この弟子たちに対して、なお同じことを求めて責め立てることはなさらず、むしろ、「あなたがたは、誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい!」と、この弱い弟子たちの信仰を励まし、その魂を配慮してくださったのでした。この後、弟子たちは、イエス様の十字架につまずき、深い悲しみと絶望を味わうことになります。イエス様は、その深い悲しみや絶望が「誘惑」になることをよくご存知でした。そのような悲しみの中で、サタンは弟子たちの信仰を揺さぶり、なんとか神様から引き離そうと躍起になるのです。だからこそイエス様は、「誘惑に陥らぬよう祈りなさい」と促されたのでした。これは、この時の弟子たちだけに語られたお言葉ではありません。私たちにも語られたお言葉です。何故ならば、人を神から引き離すサタンの誘惑は、常に私たちを陥れようとするからです。

 この御言葉の最後のところは、特に心引かれます。38節後半。「心は燃えても、肉体は弱い。」

 この箇所の直前のところでは、ペトロも、また他の弟子たちも皆、「たとえ死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して言いません!」「信仰を捨てません!」と立派なことを言っていたのです。けれどもイエス様は、「あの時のあなた方の言葉は口から出任せであった!」「結局、あの言葉は嘘だったではないか!」とは言われませんでした。そうではなくて、「あの時、あなた方の心は確かに燃えていた。けれども、残念ながらあなた方の肉体は弱いのだ!」と言って下さったのです。

 よく私たちは、人の失敗を追求する時に、だんだんとエスカレートし、相手の人格の一番奥深くにある、絶対に触れてはならないところまで、ついつい批判してしまうことがあります。けれどもイエス様は、それとは全く逆でした。本来、この弟子たちは、漁師上がりの屈強な男たちであって、決して肉体が弱いなどと弁解できるような人間ではありません。けれどもイエス様は、そういう屈強な弟子たちに対して、「心は燃えているが肉体が弱いのだ」と言って下さったのです。

 「自分の幸福のために生きるのではなくて、主の御心に従って生きていきたい!」そのように願わなかったクリスチャンは、おそらくいないのではないかと思います。けれども私たちは、これは神様の御心ではないと重々分かっていながら、ついつい誘惑に負けて、自分の願いを優先してしまうことがあります。これは本当に情けないことであり、悲しい現実ではないかと思います。しかしイエス様は、そういう弱い私たちを、ただ一方的に叱りつけるのではなくて、その弱さを思いやり、励まして下さいます。「心は燃えても、肉体は弱い!」「あなたが、本当に主のために生きようと願った、あの願いは真実であった。あなたの心はあの時、確かに燃えていた!」そのように認めて下さるのです。勿論、イエス様は「肉体が弱いから仕方が無い」とは決して言われません。「だからあなた方は祈るように!」「祈ることで、あの熱心を貫くように!」「誘惑に陥らぬよう祈りなさい!」と励まして下さるのです。

 私たちは、この優しいイエス様の眼差しによって今も見守られています。この主の優しい眼差しに支えられながら、祈ることを通して、絶えず私たちの信仰を揺さぶろうとするサタンの誘惑と戦い、最後の最後まで、この信仰をしっかりと守り通していきたいと思います。

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