日曜朝の礼拝「約束の成就」

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約束の成就

日付
説教
吉田謙 牧師
67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、69 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。70 昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。」
ルカによる福音書 1章57節-79節

 ザカリアは十ヶ月間、口を開くことが出来ませんでした。そして十ヶ月が経過し、口がきけるようになったその時に、ザカリアが一番最初に口にしたことは、神様に対する賛美であった、と言うのです。ザカリアがこの期間に味わっていた苦しみのことを思うと、これは本当に不思議なことですね。彼は、妻の妊娠期間中、十ヶ月もの間、口をきくことが出来なかったのです。また今日の箇所には、「手振りで尋ねた」と言われていますから、この時、彼は口だけではなくて、耳も聞こえなくなっていたことが分かります。自分の思いを自由に伝えることが出来ず、相手の思いも伝わってこない、これは本当に辛い日々ではなかったかと思います。一方では耐えがたい苦しみが毎日続きます。心が通じ合わない深い苦しみが続くのです。しかし、決してそれだけではありませんでした。もう一方では神様の恵みが鮮やかに見えています。子供が与えられ、日々、妻のお腹の中で成長し続けているのです。ザカリアは、この恵みの方に自分の目の焦点を合わせることが出来たのでした。だからこそ、神様への不満や怒りではなくて、神様への感謝と喜びが日々心にわき上がり、ついにはそれが溢れ出たのです。

 この世では、苦しみだけの人生などありません。神様の恵みが一欠片も届いてこない、そんな人生など決してないのです。神様は、苦しみの隣りに必ず恵みを用意して下さいます。逆に、この世では、恵みだけの人生もありません。私たちは罪人であり、やがては死すべき存在ですから、必ず恵みの横には苦しみや悲しみがあるのです。私たちの人生には、この両方が決して欠けることがありません。この私たちの心の焦点を、そのどちらに合わせるかによって、私たちの日ごとの生活は、随分と違ってくるのではないかと思います。もし私たちが、日ごとに届いてくる神様の恵みに焦点を合わせ、それを見つめ続けているならば、私たちの生活の中には自然と感謝と喜びが満ち溢れてくるでしょう。逆に、私たちが自分の生活の中に入り込んでくる苦しみや悲しみだけに焦点を合わせて生きていくならば、私たちはそれに耐えることが出来ません。不安や恐れや怒りが私たちの心を支配してしまうのです。ザカリアは大きな苦しみの中にあって、その苦しみに焦点を合わせるのではなくて、神様の恵みに焦点を合わせることが出来ました。そして、やがてそれが心を満たし、ついには賛美となって溢れ出たのです。

 私は、ザカリアがこの歌を幼子ヨハネが生まれた時に歌ったことに心惹かれます。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」

 ここに使われている言葉は全部過去形です。そういうことを神様がして下さった、と歌うのです。まだ起こっているのは、幼子ヨハネが生まれただけです。今日の箇所では、まだイエス様さえ生まれていません。しかも生まれたヨハネも、まだ赤ん坊にしか過ぎないのです。そんな時にザカリアは神様を賛美し始めました。それも過去形の言い方で、全部のことが既に実現したかのように歌っているのです。本来、賛美というのは、こういうものではないかと思います。目の前に現れた恵みだけを歌うのではなくて、神様が私の内で始めて下さった救いは必ず完成するのだと信じつつ、それが全部起こったかのように神様を賛美するのです。

 このザカリアの歌の最初の68節から75節のところで特に強調されていることは、神様は本当に真実なお方であり、約束を果たして下さるお方なのだ、ということです。祭司であるザカリアにとって、この神様の約束は、全て知っていることばかりでした。しかし、知っていることと、それを本当に理解し、信じることとは大きな隔たりがあります。ザカリアは、自分自身がその神様の救いのご計画の中に立たされることによって、神様の現臨に触れ、今まで知っていたことが、本当の意味で分かったのです。そして、それらを全て受け入れ、信じることが出来たのでした。イスラエルの一番最初の時代に、アブラハムに約束して下さったことを神様は忘れないでいて下さった。今、将にその約束が成就しようとしている。その最初の第一歩が始まった。幼子ヨハネが生まれたのです。「約束を必ず果たして下さる真実の神様が活動し始めたのだから、もうこれは全て起こったも同然である!」「神様はその民を訪れて下さった!」「解放して下さった!」「もう神様は救いの御業を完成して下さったのだ!」とザカリアは歌ったのです。

 今、私たちを取り巻く環境は、決して安心できるものではありません。目の前の悲惨な状況を見る時に、これからいったいどうなってしまうのだろうか、と不安になることがあります。しかし、この世界は、神様が独り子を犠牲にしてまでも救いたいと願われた愛すべき世界です。そして、その神様の救いの御業は、ザカリアの時よりも、今は、もっと素晴らしい仕方で実現しています。もう今は救い主イエス・キリストがこの世にお生まれになりました。その地上の生涯の最後に、イエス・キリストは私たちの身代わりとなって十字架の上で死んで下さったのです。そして三日目に甦り、今は天に昇って、聖霊において、いつも私たちに寄り添い、共に歩んで下さるのです。今は、ザカリアの時よりも、もっと深い仕方で、神様は私たちを訪れて下さいます。もっと深い仕方で私たちを主に仕える者として下さいます。もっと確かな仕方で私たちの罪を日ごとに赦して下さるのです。そういうわけで私たちは、目の前の現実がどうであろうと、このザカリアよりももっと深い仕方で神様を賛美することが出来るはずなのです。

 目の前の現実がいかに絶望的であったとしても、私たちはそこから結論を引き出す必要はありません。そのような現実以前に、既に神様は、救いの御業をこの地において始められました。そうであるならば、私たちは何を心配する必要があるでしょうか。必ずや神様が、その救いの御業を完成へと導いて下さるに違いありません。神様は真実なお方です。約束なさったことは必ず果たして下さいます。クリスマスがそのよき証しでありましょう。たとえ目の前の現実が、いかに絶望的であったとしても、私たちはそこに焦点をあてるのではなくて、神様が二千年前のあのクリスマスの日に、決定的な救いの御業を始めて下さったというあの驚くべき恵みに焦点をあてましょう。そして、「主は恵み深い!」と心の底から主を賛美しつつ、約束の成就であるクリスマスを、今年も皆で心から喜び祝いたいと思います。

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