日曜朝の礼拝「聖霊降臨」

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聖霊降臨

日付
説教
吉田謙 牧師
17 神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
使徒言行録 2章1節-21節

 五旬祭というユダヤの大きなお祭りの日に、イエス様の弟子たちが皆一所に集まっていました。そこに突然、激しい風の音が家中に響き渡り、炎のような舌がわかれわかれになって、そこにいた一人一人の上にとどまりました。するとどうでしょう。そこにいた全員が聖霊に満たされて、めいめい外国の言葉で神様の偉大な救いの御業を語り始めた、と言うのです。これが、ペンテコステの日に起こった不思議な出来事です。教会は、その時以来、二千年間、ずっとこの日をお祝いし続けているのです。

 このペンテコステの物語の中で、この聖霊の働きとして特別に強調されていることがあります。それは、この聖霊が全ての人の上に降った、と言われていることです。教会の中の信心深い誰かだけにというのではなくて、まだ未熟な信仰の人も含めて、全員の上に聖霊が降った、と言うのです。では、この聖霊が心に宿った時に、何が起こったのでしょうか。それは一人一人が神様の偉大な御業を語り始めた、ということです。11節のところに、このペンテコステの出来事を見た周囲の人々が驚いて言った言葉が記されています。11節の後半。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

 ペンテコステの日に聖霊が降った時、信徒たちがし始めたことは、神様の偉大な御業を語り始めることでした。では神様の偉大な御業とはいったい何でしょうか。勿論、それは、この時まだ起こったばかりの出来事、イエス・キリストの十字架と復活の出来事でありましょう。イエス様の十字架によって私たちの全ての罪が赦され、イエス様の復活によって永遠の命の恵みが与えられました。この大きな出来事を、全ての信徒たちが、聖霊に促されて、喜んで語り始めたのです。

 全ての人に聖霊が与えられ、全ての人が神様の御心を語り出す、これがペンテコステの日に実現した聖霊の時代の特徴です。神様の救いの御業を語るのは、決して牧師の専売特許ではありません。勿論、この礼拝の場所で御言葉の説教を語るというのは、立てられた牧師の特別な働きでありましょう。けれども、この場所で賛美を通し、祈りを通して、神様の偉大な御業を言い表すのは、ここにいる全ての信徒たちです。また礼拝の御言葉の説教以外であるならば、全ての信徒たちが御言葉を読み、理解し、神様の救いの御業を語ることが出来る。ペンテコステの時から始まったのは、そういう出来事です。どこに行っても牧師が語らなければ神様の御声が聞こえてこない、もうそういう時代は終わったのです。勿論、ギリシャ語やヘブライ語で書かれた原典を読まなければ分からないような聖書の細々としたことが、全ての人に分かるわけではありません。けれども、聖書の中心的な教えは、何も原典が読めなくても十分に分かると思います。イエス・キリストが他でもない私のために十字架の上で死んで下さった、このことがいかに大きな恵みであるかは、原典が読めなくても、はっきりと分かるはずです。キリストが死に打ち勝たれて、今も生きて働いておられる、今は霊において私たちと共にいて下さる、このことも原典を読まなくても、はっきりと分かります。この一番大切なことが、ちゃんと分かっているならば、細々としたことが分からなくても大丈夫なのです。

 今、私たちの教会では、毎週、木曜日の午前中に、オンラインで、家庭集会と求道社会の合流の集会がもたれています。コロナ禍になって以来、なかなか思うように交わりがもてない中にあって、毎週、このような集会がもてているのは、本当に感謝なことではないかと私は思います。この集会では、最初に牧師がメッセージを語ります。しかし、この会の中心は、やはりその後で皆で御言葉の恵みを分かち合うことにあるのではないかと私は思います。時には証しが語られることもありますし、それぞれの近況報告の中で、今、自分はこういう課題をかかえているので、是非、祈って欲しいという祈りの課題が提示されることもあります。いずれにしても、そこでは豊かな信仰の語り合いがなされ、とても楽しいひとときを過ごすことが出来ているのです。少しずつコロナも収束に向かいつつありますから、求道者会や家庭集会だけでなく、色んな機会に、聖霊を受けている者同士として、神様の偉大な御業を、それぞれの賜物に応じて大胆に語り合っていきたいと思います。

 また、このペンテコステの特徴として、もうひとつあげることが出来るのは、色んな国からやって来た人々が、それぞれのお国言葉で福音を聞くことができた、ということです。つまり、それぞれの生活の言葉で福音を聞くことができたのです。これは日本語で福音が聞ける、ということだけを指しているのではありません。私たちは、一人一人、年齢も性別も違います。学んでいる学校や働いている職場も違います。育った環境、住んでいる地域、家族構成、趣味、みんな一人一人違っています。そういう、それぞれ違ったものをもっている一人一人に、その人にぴったり合った生活の言葉で福音が届けられる、これはもう牧師一人の働きでは到底間に合わないことでしょう。

 イエス様は私たち一人一人をそれぞれの場へと遣わして下さいます。それは愛する家族のもとであり、それぞれの職場であり、学校であり、地域社会です。聖霊に促されて、この神様の偉大な御業を、それぞれの生活の場で語ること、これが聖霊の時代に生きる私たちの使命と言えるでしょう。本当に弱くてちっぽけな私たちですが、使徒言行録1章8節のところには、こう言われています「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」この御言葉に励まされながら、弱いながらも、聖霊に力をいただき、それぞれの場へと遣わされていきたいと思います。

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千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。

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