日曜朝の礼拝「執り成しの祈り」

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執り成しの祈り

日付
説教
吉田謙 牧師
30 どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、31 わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、32 こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。33 平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。
ローマの信徒への手紙 15章30節-33節

 エルサレムの教会には貧しい人々が沢山いました。ですからパウロは、その貧しい教会員を援助するために、自分が開拓伝道で建て上げた教会で募金を集め、それをこのエルサレム教会に届けようとしていたのです。しかし、エルサレムには、パウロの命をつけ狙う人々が大勢いたのです。ですから、エルサレムに行くことは、このような危険の中に飛び込んで行くことでした。そして、パウロ自身もそのことをよく自覚していました。ですから、「どうか私のために祈ってほしい!」とローマの教会に懇願したのです。

またパウロは、「神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。」と願いました。エルサレムにおいて命が守られ、またエルサレムの教会からも、募金を快く受け入れられたならば、きっとパウロも喜びに満ち溢れることでしょう。その喜びに生かされながら、エルサレムからローマまでの旅をし、ローマで憩うことが出来るように、あなた方もどうか祈って欲しい、とパウロは願っているのです。「憩う」というのは、「ホッと一息ついて安心する」という意味の言葉です。おそらくパウロは、この時、相当、緊張していたのでしょう。だからこそ、全部のことが順調に進み、あなた方のところでホッと一息つくことが出来るように、あなた方もどうか祈って欲しい、とパウロは切に願ったのでした。

 さて、今日の箇所に記されているこのパウロの祈りは、果たして神様に聞き届けられたのでしょうか。使徒言行録の21章以下のところに、このパウロがエルサレムに出かけて行った時の様子が記されています。その箇所を読むと、この時のパウロの祈りは、実は叶えられなかったことが分かります。パウロは、エルサレムに出かけて行った時に、案の定、ユダヤ教を信じるユダヤ人たちに捕らえられ、危うく袋だたきに合いそうになりました。そこへちょうどローマの駐留軍が通りかかり、パウロをユダヤ人たちの手から奪い取ったのです。しかし、彼らはパウロを釈放せずに、そのまま囚人にしてしまったのでした。そしてパウロは、囚人として二年間、その地方のローマの役所に留め置かれ、その後に裁判を受けるために囚人としてローマに護送されていったのです。使徒言行録にはそのことが詳しく記されています。「神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように!」こう祈って欲しいとパウロは願いました。けれども、それは随分と違う形で実現したのです。即ちパウロは囚人として、これから裁判を受ける身の上となって、ローマへとやって来たのでした。叶えられなかった祈り、これが今日の箇所に記されているパウロの祈りなのです。

 32節のところでパウロは、「御心によって」と書いています。これは喜びの内にローマに行って憩うことが神様の御心であって欲しい、という願いです。しかし、もう一方では、全ては神様の御心によって決まるのだ、という信仰も言い表していると思います。「何が何でもこうあってほしい」と言うのではなくて、御心によってそうなることを自分は願う、とパウロは祈ったのです。イエス様がゲツセマネで「御心がなりますように」と祈ったのと同じです。そのようにしてパウロは「御心によって」と祈りました。しかし、神様の御心は、このパウロの願いとは違っていたのです。

 神様の御心と違うことを願う、私たちはこういう祈りをしてもよいのでしょうか。実はよいのです。勿論、明らかに御心に反するような祈りは駄目です。聖書がはっきり教えている事柄とは違うことを祈る。例えば他の人の失敗を祈るとか、全然努力もせずに、遊び呆けながら成功しますようにと祈る、これは言うまでもなく間違った祈りです。けれども、神様の御心がまだどこにあるのか分からない場合、結果的に神様の御心とは違う祈りをしていたとしても、それはかまわない。イエス様を信じる心に突き動かされて祈っているならば、私たちは心にある願いを大胆に祈ってよいのです。

 ある教会の教会役員の方の記念文集を読んだことがあります。この長老は末期癌を宣告され、淀川キリスト教病院のホスピス病棟で亡くなられた方です。この文集に、その長老の奥様の文章が載っていました。ご主人が末期癌と診断され、余命三ヶ月と宣告された時に、奥様は毎日、神様に「奇跡が起こるように!」と祈っていたと正直に書いておられます。愛するご主人の病気が、現代医学であっても、「もう手の施しようがない」と知らされた時に、「神様、奇跡を起こして下さい!」「主人を癒して下さい!」「わたしから主人を取り上げないで下さい!」と祈った、これは当然のことではないでしょうか。私たちは、聖霊が起こして下さる愛に促されて祈っているならば、大胆に祈ってよいのです。何が神様のご計画だろうかと先回りして心配しなくてもいい。もう安心して、「助けて下さい!」「無事でありますように!」「命が助かりますように!」と大胆に祈ってよいのです。

 最後に、パウロは「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」と書き記しました。まるで祝祷のような言葉ですね。心配で心配で心がつぶれそうになっているローマの教会の人たちに向かって、「大丈夫。あなた方には平和の源である神様が共にいて下さるではないか。この神様に一切を委ねて、安心して祈るように!」とパウロは励ましたのでした。

 全能の神様と私たちとの関係は平和なのです。敵対していない。「全能の神様があなたを愛し、あなたと共にいて、あなたの祈りに耳を傾けていて下さる。そして、その神様が、ご自身の知恵と力を尽くして、あなたの祈りに答えて下さる。そうであるならば、何を心配することがあるだろうか。あなたの思いを遙かに超えた、限界の無い神様の知恵と力が全力を尽くしてあなたを守る、私を守る。だから安心して、私のために、私と一緒に祈って欲しい!」こうパウロは励まし、ローマの教会の人たちを祈りへと促したのでした。私たちも、この平和の神様が共にいて下さる安心感の中で、イエス様に倣い、また聖霊が心に起こして下さる愛に促されて、愛する者たちのために、諦めずに執り成し祈り続けたいと思います。

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