日曜朝の礼拝「荒れ野で叫ぶ声」

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荒れ野で叫ぶ声

日付
説教
吉田謙 牧師
2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
マルコによる福音書 1章1節-8節

 洗礼者ヨハネは、イエス様が公の活動を開始する前に、人々に救い主であるイエス様を指し示し、あらかじめ救いの道を整えるために活動を開始した人です。では、具体的に彼は何をしたのでしょうか。4節にはこう言われています。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」

 ヨハネはヨルダン川で洗礼を人々に施しました。その洗礼について「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」という説明がつけ加えられています。ですから、この洗礼を受ける者は、まず自分が「罪の赦しを必要としている罪人」であることを認めなければなりません。つまり、自分には罪がないと考えている人は、この洗礼にあずかることができなかったのです。

 聖書を読む時に、必ず避けて通れない言葉が、この「罪」、あるいは「罪人」という言葉です。この「罪」という言葉のもともとの意味は、引いた矢が的をはずすことを意味する、と言われます。的をはずす生き方をしていながら、それに気づいていない。自分は的をはずしていないと言い張る。そこに罪の現実があるのだ、と言うのです。それでは、私たちの生き方が「的はずれ」にならないための目指すべき的とは、いったいどこにあるのでしょうか。宗教改革者カルヴァンは、「神を知り、神を礼拝する喜びを知らない人は人間ではない」と言っています。私たちは「神様を知り、神様を礼拝する」ために神様から造られました。その私たちが神様を忘れ、神様以外のものを拝むならば、それは将に的はずれな生き方をしている、ということになるでしょう。聖書はそれを「罪」と呼び、そのような的はずれな生き方をする人のことを「罪人」と呼んでいるのです。

 それでは、「悔い改め」とはどういうことでしょうか。世間一般では、通常、この言葉は、悪人が今までの生き方をやめて、まじめに生き始めた時によく使われると思います。「私は悔い改めました。もう悪いことはいたしません。足を洗います」などと言う時によく使うのです。けれども、聖書が言う「悔い改め」という言葉は、もっとシンプルな意味を持っています。それは「方向転換」という意味です。

 私たちが「的はずれ」な生き方しかできないのは、いつも向いている方向が間違っているからでしょう。だから、どんなに努力しても、その苦労は水の泡になってしまうのです。間違っている方向に、一生懸命、ひた走っている、これほど空しい生き方はありません。だからこそ私たちは、自分の心の向きを、神様の方へと向き直さなければならないのです。けれども、残念ながら、私たちが持っている霊的な方向感覚はもう狂っていますから、自分の力だけでは正しい方向に向き直ることができません。だからこそ、私たちには洗礼者ヨハネの声が必要なのです。ヨハネは、私たちが向き直るべき方角を指し示すために荒れ野で声を上げました。そして、そのヨハネの声が指し示す方向に、救い主イエス・キリストが現れ、そこに私たちが神様のもとに立ち帰る道が開かれていったのです。

 教会も、クリスマスを直前に控えたこの時期に、洗礼者ヨハネに託された務めを果たしていかなければなりません。つまり、的外れな生き方から立ち帰るために、イエス・キリストという道筋をはっきりと指し示すのです。

 そもそも私たちが救われ、自由と解放の喜びを味わえるようになったのは、何故でしょうか。決して私たちが立派だったからとか、一生懸命頑張ったからとか、清く正しく生きたからではありません。直弟子たちがここぞという大切な時に裏切ってしまったように、私たちもイエス様のことを、何度も何度も裏切り、悲しませてしまったのです。そういう意味では、私たちはみんな、もう救われようのない者たちでありましょう。けれども、そんな救われようのない私たちを、神様は決してお見捨てになりませんでした。「あなたは、取り返しのつかないことをしてしまったと悔やんでいるのかもしれない。もう駄目だ、と人生を諦めかけているのかもしれない。しかし、本当はそうではない。私は、あなたが弱かった時に、不信心であった時に、敵であった時に、あなたを救うために御子を十字架に送った。決して、あなたが何かをしたからでも、何かが出来るからでもない。私にとってあなたは、存在そのものが愛おしく、価高く、尊く、誰にも替えがたい宝なのだ。もうあなたは過去の失敗や汚(けが)れや罪に、くよくよしながら生きなくてもいい。それらは全部、御子の十字架によって洗い流された。だから、あなたは勇気を出して、諦めないで、もう一度、私のもとでやり直してみなさい。新しく生きてみなさい!」このように神様は、一方的に、また無条件に、私たちを神様のもとへと呼び戻して下さったのです。この福音に触れた者は、この喜びの知らせを、なんとかして一人でも多くの人たちに知ってもらいたいと思う、これは極々当然のことでありましょう。決して強いられてではなくて、このような喜びと感謝の思いに突き動かされて、私たちもこの洗礼者ヨハネの務めを果たしていきたいと思います。「ここにこそ救いがあります。どうか私を見てください。私のような、愚かで、罪深く、ちっぽけな存在であっても救われました!あなたも大丈夫です!どうか、十字架のイエス・キリストのもとに来て下さい!」と。

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