日曜朝の礼拝「教会に生きる喜び」

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教会に生きる喜び

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説教
吉田謙 牧師
26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。コリントの信徒への手紙一 12章12節-27節

 神様は、実に深い配慮によって、体の一つ一つの部分を作り、配置なさっておられます。その神様の絶妙な配分を無視し、体の一つ一つの部分が、その個性を失い、全部、同じ働きをするようになってしまったならば、どうなるでしょうか。それでは体というものが成り立ちません。それと同じように、私たち一人一人にも、神様の深い配慮によって、「私にはこの賜物」「あの人にはあの賜物」という具合に、一人一人に違った賜物が分け与えられているのです。そして、それは、一人一人の賜物が組み合わされて、教会が一つの体として健全に機能するようにと、神様が熟慮の末に私たち一人一人に分け与えて下さった絶妙な配分なのです。ですから、自分に与えられている賜物を人のそれと比べて、卑下する必要など全くありません。むしろ、あなたの持つ個性が、キリストの体なる教会にはどうしても必要なのです。

 どんなよい働きができるかが大事なのではありません。神様は、私たちが、どんなに弱く、みすぼらしく、見劣りがする者であっても、他の兄弟姉妹と共にキリストの体の部分として生きることを喜ばれます。反対に、どんなに優れた能力を持ち、立派な奉仕ができたとしても、それが自分一人の個人プレーになってしまい、兄弟姉妹と共に歩むことになっていなければ、神様はそのような働きを、決して喜ばれません。26節の「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」という言葉も、このことと深く関係しています。

 例えば、誰か一人が洗礼を受けた時に、それはただ単なる個人的な喜びに留まらず、教会全体の喜びになります。また、教会員の誰かが病気になると、家族だけが心配するのではなくて、教会全体が心配するのです。これはごく自然なことですね。その人の働きとは全く関係ありません。それが教会の喜びや悲しみになっていくのは、その方が兄弟姉妹と共に歩んでいるからです。たとえどんなに素晴らしい働きであったとしても、それがただ単なる個人プレーであったならば、決して教会全体の喜びにはなりません。その人が兄弟姉妹と共に歩んでいる時に初めて、他の人もその喜びを共に喜び、その苦しみを共に苦しむことができるのです。要するに、大事なことは、人に尊ばれるような業績を上げることではなくて、キリストの体の部分としての自覚と姿勢を持って、他の部分である兄弟姉妹と共に歩むことです。そのように歩むところに、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」という御言葉が、少しずつ実現していくのだと思います。

 この体のたとえを語ったパウロは、身体に「しょうがい」を抱えていたと言われています。コリントの信徒への手紙第二の12章のところでパウロは、「とげ」を取り除いて欲しいと三度主に願ったと記されています。しかし、その時にパウロは主の御声を聞いたのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ!」と。パウロは、今日の「体のたとえ」を語った時に、おそらく自分の身に起こったことをも思い浮かべていたことでしょう。このパウロの「とげ」とは、泡を吹いてどこでも倒れてしまう難病だったのではないかとか、あるいは目の病気で殆ど目が見えなかったのではないか、と言われています。いずれにしても、これは伝道者としては致命的な欠陥です。いつ泡を吹いて倒れてしまうか分からない、そんな状態では、到底自由に伝道などできません。また目が霞んで見えなければ、聖書を読むことができない。当時は点字聖書などありませんから、いちいち誰かに読んでもらわなければならないのです。こんな体では、もう到底、ろくな働きなどできない、普通なら、そう考えて当然でありましょう。けれども、神様のお考えは決して、そうではありませんでした。神様は「『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。』あなたが弱い時にこそ、私は働く。私に信頼するように。今こそ私の出番なのだ!」とパウロに語りかけて下さったのです。パウロは、この神様の語りかけに励まされて、その働きを続けることができました。確かにパウロの働きには、目を見張るものがあったでしょう。けれども、その働きは、決してパウロ一人で成し遂げたものではありません。ある時にはバルナバが、ある時にはシラスとテモテが、またある時にはアクラとプリスキラ夫妻が、またある時には名もない多くのクリスチャンたちが、彼の働きを支えたのです。そうやってパウロは、キリストの体である目や足や耳や鼻といった多くの部分に支えられながら、キリストの体の一部分としての働きを成し遂げていったのでした。

 パウロの働きは、神様が熟慮に熟慮を重ねて、絶妙に組み合わせて下さった数多くの小さな働きによって支えられました。どの一つの働きが欠けても、パウロの働きは、途中で挫折していたことでしょう。キリストの体にしっかりと結び合わされていたからこそ、パウロの働きが生きてきたのです。そして、それはパウロを助けたバルナバやシラスやテモテ、アクラとプリスキラ夫妻、名もない多くのクリスチャンたち一人一人にも言えることなのです。一人一人の働きは、本当に小さな小さな働きであったかもしれません。しかし、その一つ一つの小さな働きがキリストの体に結び合わされて、大きく大きく用いられていったのでした。

 私たちも同じです。頭であるキリストの語りかけに耳を傾けているならば、今、自分が何をなすべきかは自然と示されていくことでしょう。それは、人の目から見れば、本当にちっぽけな働きなのかもしれません。けれども、たとえそれが小さな働きであったとしても、今、それぞれが置かれた状況の中で、自分の賜物に応じて精一杯のことをしていくのです。その時に、神様はあなたのその小さな働きを、兄弟姉妹の働きと絶妙に組み合わせて、キリストの体の働きとして、大きく用いて下さるでしょう。

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