日曜朝の礼拝「主の祝福を信じて」

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主の祝福を信じて

日付
説教
吉田謙 牧師
14 主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。15 見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。
16 あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。17 さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」
創世記 13章1節-18節

飢饉を逃れてエジプトに行ったアブラムは、美しい妻サライを自分の妹と偽りました。妻だと言うと、サライを奪おうとする輩に殺されてしまう恐れがあったからです。しかし、その偽りの結果、サライはエジプトの王ファラオの後宮に召し入れられてしまいました。ファラオの妾の一人にされてしまったのです。その見返りに、ファラオはアブラムに多くの財産を与えました。こうしてアブラムは、自分の身の安泰と財産を得た見返りに、妻を妾としてエジプトの王に売り渡すはめになってしまったのです。幸い神様が直接介入して下さったおかげで、サライはアブラムのもとに帰ることができました。そして、彼らは、与えられた財産を全て携えて、エジプトを出ることになったのです。このように「非常に多くの家畜や財産」は、最初から意図していたわけではないにしても、結果的に妻サライをエジプトの王に売ってしまった過ちによって得られたものでした。そういうわけで、アブラムは、「非常に多くの家畜や財産」を手にしながらも、むしろ後悔と恥辱の念を抱きながら、またこのカナンの地へと戻ってきたのです。

 カナンの地に戻ったアブラムたちを待ち受けていたのは、豊かになったがゆえの問題でした。ここで、アブラムの甥であるロトが登場します。ロトは、彼の弟ハランの息子です。ハランは既に故郷のカルデヤのウルで死んでいます。幼い時に親を亡くしたロトは、子供がいないアブラムとサライにとって、跡取りのような存在だったのでしょう。お互いに、そういう思いで、これまで旅を続けてきたのです。ところがお互いが豊かになり、養うべき群れが大きくなったがゆえに、お互いの家畜を飼う者たちの間に争いが起ってしまったのです。では、アブラムは、この豊かさのために生じた問題に、どう対処したでしょうか。彼は、ここで一つの提案をします。それは「お互い分かれて別々の歩みをしよう、ということでした。お互いが平和に歩むためには、物理的状況からしてそうするしかなかったのです。そしてアブラムは、ロトにこう言いました。

9節後半。「あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」

 つまりアブラムは、ロトに、好きな地を選ぶ権利を与えたのでした。そして自分は、それとは反対の方向へ行く、と言ったのです。その提案を受けて、ロトはヨルダン川流域の低地地方を選び、そちらへと移って行きました。ロトが選んだ地は、豊かで、潤った、暮らしやすい土地でした。反対にアブラムが住むことになった山地地方は、痩せた土地で、まだ未開の地でした。この時、アブラムは神様に全てを委ね切って、晴れ晴れと歩み始めたでしょうか。おそらく、そうではなかったと思います。色んな後悔や恐れや不安があったのではないでしょうか。そんなアブラムだったからこそ、この後、主なる神様が彼に声をかけて下さったのです。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と。うなだれて、下を向いてしまっているアブラムに、神様は「目を上げなさい」と励まされたのです。そして、以前に与えて下さった恵みの約束を、もう一度確認して下さると共に、「見えるかぎりの土地をすべて、あなたとあなたの子孫に与える」と宣言して下さったのでした。これは、ロトが選んで去っていったヨルダンの低地地方も、またその結果、彼が今暮らすことになった山地地方も含めて、見渡す限りの土地を神様がアブラムに与えて下さる、ということでしょう。要するに、目の前にある土地が豊かな土地であろうが、痩せた土地であろうが、そんなことには一切関係なく、どんなことがあろうと、神様はアブラムを祝福し、アブラムを祝福の源としてくださる、ということです。アブラムは、このことさえ知っていればよかったのです。この時、アブラムは、目の前の現実の厳しさと、その結果を招いた自らの不甲斐なさを痛感しつつ、うなだれていました。しかし、神様が彼に、「目を上げよ」とお命じになったのです。アブラムは、この語りかけによって、目を上げて、再び神様の約束を仰ぎ見ることが出来たのでした。

 神様は、週毎の礼拝の中で、私たちにも「あなたが今いるそこから、私に向かって目を上げなさい」と語りかけて下さいます。私たちの目に見える現実は、弱さと罪に満ちていて、後悔や嘆きの連続でありましょう。そういう厳しい現実を前にして、元気を失い、うなだれている私たちに向かって、神様は毎週の礼拝の中で、繰り返し「目を上げなさい」と促して下さいます。「あなたの罪を贖い、あなたを滅びから救い出すために私は御子を十字架に送った。私にとってあなたは、それほどまでに価高く、尊く、絶対に失われてはならない、誰にも替えがたい宝物のような存在なのだ。どんなことがあろうとも、私は決してあなたを見捨てない!」私たちは、礼拝の中で、繰り返し、この神様の語りかけを聞くのです。厳しい現実が変わるわけではありません。けれども、イエス・キリストの十字架の恵みが、私たちの内側で生き生きと息づいていく時に、どんなに厳しい苦難に出会ったとしても、私たちはぎりぎりのところで踏みとどまることが出来る。何故でしょうか。「神様は私のことを御子を十字架に犠牲にするほどまでに愛し抜いておられる。決して私のことをお見捨てにはならない。私の人生は全てこの神様の御手の中にある!」このことを知っているからです。今日も、神様によって信仰の目をあげさせていただき、イエス・キリストの十字架と復活の恵みを、今一度、心に刻みたいと思います。そして、どんなことがあろうとも、私の人生は神様の御手の中にあることを信じて、決して諦めることなく、厳しい現実としっかりと向き合い、色んな可能性を求めて、縦横無尽に歩んでいきたいと思います。

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