日曜朝の礼拝「主の前を生きる」

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主の前を生きる

日付
説教
吉田謙 牧師
1 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」ルカによる福音書 20章45-21章4節

ここで「生活費」と訳されている言葉は、「いのち」と翻訳してもよい言葉です。ですから、別の訳し方をすると、このやもめは「いのち」そのものを、全部、神様の前に差し出してしまった、となります。生活費は出したけれども、自分の命はこちらに置いているというのではありません。自分の全存在を差し出してしまったのです。それはお金だけではなくて、苦しみや悲しみ、様々な重荷をも全部ひっくるめた、自分の全てを差し出した、ということでしょう。要するに、すべてを神様に委ね切ったということであります。貧しさのゆえに、今まで思い悩んだこと、苦しんだこと、藻掻いたこともあったかもしれません。しかし、万策が尽きてしまった。自分の力では、もうどうする事も出来ない。他に手がないのです。けれども彼女は決して諦めたわけではありません。破れかぶれになって、有り金全部を投げ出してしまったわけでもない。そうではなくて、そういう苦しみの中で、本当に生きて働かれる神様に出会ったのだと思います。自分の力で生きているのではない、神様の御手の中で生かされている。そういう自分を知って、神様に全てを委ねることを彼女は学んでいったのではないか。そして、そこにこそ、まことの平安があることを見出していったのではないかと思います。彼女は人の前を生きたのではなくて、ただひたすらに神様の前を生きたのです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、本当の神礼拝とは何か、ということを明確に語っています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生け贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」ローマの信徒への手紙12章1節の御言葉です。

 礼拝とは、このやもめのように、自分の全存在を献げる、ということです。それは、綺麗なところ、見栄えのいいところだけを献げるというのではありません。全部です。悩みも苦しみも全部抱えたまんまで、自分の全てを神様に差し出すのです。それが真実の礼拝であります。そういう意味では、このやもめこそが、真実の礼拝を捧げていた、ということになるでしょう。このやもめの献げたレプトン銅貨二枚は、将に、自分をまるごと献げることのしるし、献身のしるしだったわけであります。イエス様が、このやもめの献金をご覧になって感動なさったのには、一つの大きな要因がありました。この時イエス様は、十字架の死を目前に控えておられました。イエス様は、この後、人々のために生活費全部どころか、命そのものを神様に献げて下さったのです。今日の箇所に登場する神様の御手に全てを委ねたやもめの姿と、全てを委ねて十字架に死なれたイエス様のお姿とが、ここではある意味、重なって見えてくるのです。だからこそイエス様は、このやもめの献げものを、将にご自分のことのように喜ばれたのではないでしょうか。

 今、イエス様は、旧約の時代のように犠牲を献げなさい、とは言われません。「私は他でもないあなたのために命を捨てたのだ!」と言われます。私たちがなすべきことは、主の十字架を仰ぎ、自らの罪を悔い改めて、感謝のささげものをすることです。

 主なる神様が、この私をご自身の独り子と引き替えにして下さるほどに、尊く、価値ある存在として見て下さり、愛して下さいました。そして、その神様の愛は、決して変わることがありません。私たちが年老いて仕事が出来なくなっても、若い時の元気や美貌が失われていっても、たとえ寝たきりになったとしても、あなたがあなたであることには変わりない。そしてあなたは値高く、尊く、私はあなたを愛している。そう言って下さる。「あなたは生きよ。命を受けよ」と、ご自身の独り子を身代わりとして十字架に送って下さったのです。この神様の愛にすっぽりと包まれて生きる時に、私たちはもう一生懸命自分に価値があることを人に示さなくてもいい。見栄を張らなくてもよいのです。ころころと変わる人の評価ではなくて、天地を造られて、今も生きて支配しておられるお方が、あなたを値高く、尊い存在として受けとめておられるからです。この神様の愛に対して、心からの感謝と献身をあらわすこと、これが今、私たちに求められていることです。もう私たちは、旧約の時代のように、神様の怒りや呪いをなだめる必要はありません。私たちが受けるべき怒りや呪いは、もう既にイエス・キリストが十字架の上で、全部、引き受けて下さったからです。私たちのささげものは、神様の怒りや呪いをなだめるための犠牲であったり、御利益を期待しての「お賽銭」とは違うのです。イエス・キリストが十字架を通して成し遂げて下さった大いなる犠牲、贖いの御業に対する感謝のささげものです。

 そういうわけで私たちの生活全体を喜んで、感謝のささげものといたしましょう。これこそが献身であり、礼拝です。何も取り繕う必要はありません。見栄を張る必要もない。あるがままの自分を全部神様に委ねればよいのです。イエス様が十字架の愛で、それをちゃんと受けとめて下さいます。

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