日曜朝の礼拝「ぶとう園と農夫のたとえ」

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ぶとう園と農夫のたとえ

日付
説教
吉田謙 牧師
9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。・・・・12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』 ルカによる福音書 20章9-19節

皆さんはこの譬え話を読まれて、どういう印象を抱かれたでしょうか。おそらく、ほとんどの方々が「なんてひどい話だ」「あり得ない話だ」と感じられたのではないでしょうか。その原因の一つにあげられるのが、この譬え話に登場する農夫たちが、あまりにも悪質である、という点にあります。こんなにひどい人間はいないと思う。けれども、これは私たちの罪が、それだけ悪質なのだ、ということの指摘です。また、この譬え話があり得ない話に思えるもう一つの原因は、主人の側の態度にもあると思います。もっと賢いやり方があるのではないかと、ついつい思ってしまう。この世の常識からするならば、この主人のやり方は、少々頭が悪いのではないかと思えるほどに愚かなやり方なのです。

 自分の送った僕(しもべ)たちが、次から次へと袋叩きにされて、侮辱され、傷つけられてしまったのです。そこで、何故、愛する息子を送らねばならなかったのでしょうか。「息子には権威があるから、今まで僕(しもべ)たちに加えられた仕打ちに対して、仕返しをさせるのだ!」もしそういうことであるならば、まだ理解はできるでしょう。けれども、ここではそうではないのです。13節にはこう言われています。「『わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」

 人がいいにもほどがある、と言いたくなるような態度です。今までの僕(しもべ)たちに対する仕打ちを見れば、息子を送ればどうなるかぐらいは予想がつきそうなものです。何故、この主人はこういう愚かな態度に出たのでしょうか。それは農夫たちを、なお信頼していたからです。こういう状況の中で、なお愛する息子を送ったならば、きっと私の愛に気づいてくれるに違いない。そして、今までの過ちにも気づいてくれるに違いない、そう信じ、期待したのです。世の常識からするならば考えられないような態度です。けれどもイエス様は、誰がなんと言おうと、この譬え話を通して、この父なる神様の愚かしいまでの愛を明らかにしようとなさいました。私たちの有り様に全く関係なく、私たちを信頼し、愛し続けて下さる。何度、裏切られても、私たちの悔い改めを忍耐強く待ち続けて下さる。「これが父の御心なのだ」「私はただひたすらこの父の御心を行う!」このことを主は一所懸命に伝えようとなさったのです。この神様のなさり方は、世の常識からすれば確かに愚かでありましょう。けれども、よくよく考えてみると、この神様の愚かしいまでの真実の愛がなければ、私たちの救いはそもそもなかったのではないでしょうか。もし私たちの主人が、人間の常識で計れるようなお方であったならば、どうでしょう。私たちは、もうとっくの昔に消滅していたはずです。「こんな分からず屋の人間はいらない!」と、もうとっくの昔に見捨てられていたはずであります。けれども幸いなことに、私たちの主人は、欠けや弱さや破れをもったまんまで私たちを抱きしめて下さる。愛して下さる。受け入れて下さる。遣わした預言者を何度ないがしろにされても、なお信じ続けて御子をも遣わして下さるお方なのです。

 この愚かしいまでの神様の深い愛がもたらした物語の結末が、17節後半に記されています。「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。」

 「あなた方が邪魔だと言って捨てた石が、新しい将来を開く礎(いしずえ)となるのだ!」とイエス様は言われました。この「家を建てる者の捨てた石」とはイエス様のことです。イエス様は確かに人の手によって捨てられました。十字架につけられるというのは、将にそういうことでしょう。イエス様は、悪質極まりない私たちの罪を十分にご存じの上で、その私たちの罪を全部背負って、まるで捨てられるかのようにして十字架について下さいました。そして、その十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、将にご自分を十字架に追いやった張本人たちのために執り成し祈られながら、命を閉じられたのであります。ここに真実の愛があります。敵意に敵意を返すような仕方で力づくで従わせるのではなくて、この神様の真実の愛に触れた者たちが、本当に心打ち砕かれて、悔い改めの涙を流す者へと造り変えられていった。そして、そういう者たちの手によって、最初の教会が建て上げられていったのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」将に、この御言葉の通りです。

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